真のいのち
六甲教会説教箇条書き、復活節4主日、09−05−03
「今すでに神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となることを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(1ヨハネ3、2)。
死について語り、死後の世界のことを語るためには、「暗いトンネルの出口に永遠の命がある」というイメージを好んで使う人もいるでしょうが、私はヨハネから示唆を受けて別なイメージを用いたいです。
アルプスの山小屋で一泊したときのことを思い出します。朝早くおきて外へ出たら深い霧がかかっており、目の前の数メートル以外に何も見えなかったのですが、10時ごろになったら、霧が晴れて遠くまで見渡すかぎりすばらしい景色が見えるようになったのです。
死んで永延のいのちに入るということはこのイメージで表されるのではないかと思います。
私たちが死んだら「天国に行く」と言うよりも「すでに天国に居たことに気づく」と言った方が適切ではないかと思います。
ヨハネが言うように、「御子が現れるとき」すなわち「私たちが死んで」はじめてキリストをありのままにみて、キリストと一致して真に生きることになるのです。
ヨハネに言わせれば、そうした「真のいのち・永延のいのち」は死んだ後のことではなく、「今すでに」私たちのうちに芽生えているのです。
永延のいのちというものは「トンエルの向こう側」にあるのではなく、「こちら側」に始まっています。死後について語るよりも、今すでに、自分のうちにある「永延のいのち・真のいのち・キリストとつながって死ねないいのち」に目覚めたいものです。