解放的な信仰の持ち方

聖書の言葉で平和と正義を語ろう

 聖書はラジカルですが、ラジカルな聖書の読み方によって教会のあり方が問いかけられ、変革させられるようにお祈りしたいと思います。
 
 では、正義と平和について聖書の言葉で黙想しましょう。

 神が望まれる世の中、神が支配する世界、神の王国というものは戦争を否定した人々のつながりとしてイザヤ預言者が見た。「神は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2、4)。

 しかし、平和は戦争のない状態だけではない。「平和がないのに、『平和、平和』と彼らは言う」(エレミヤ6、14と8,11)。

 弱い立場にいる人々が助かるような正しい社会や正しい人間関係がなければ平和とは言えない。理想的な王の姿を描く詩篇は平和と正義を保証し、弱い立場にいる人々を守る者としてそのような指導者をたたえている。「王は正しく民の訴えを取り上げ、貧しい人々をさばくように...王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を、助けるものもない貧しい人を救うように。弱い人、乏しい人を憐れみ、乏しい命を救い、不法に虐げる者から彼らの命を救うように」(詩篇72、2;12−13)。

 聖書では「正義と平和」や「正義と慈悲」が切り離せないことも強調されており、正義が伴なわない平和は似非の平和であり、慈悲を伴なわない正義もまた似非の正義である。

 狭い正義感に燃えて報復したりするようなことは聖書の平和観に合わない。詩篇でうたわれているように、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口付けする」(詩篇85、11)。「義〔正義、誠実〕の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれる」(ヤコブの手紙、3、18)。