復活際は、花祭り。復活は、新生

エスの復活こそ、新生

 私の書斎は南側の庭に面しているが、一本の桜の木が窓の真ん前に立っている。十二月、秋が終りに近づくにつれて葉が落ち、枯れた枝は冬を知らせる。冬至のころに、落ちていない葉は六枚しか残らなかった。無理してでも生き残りたかったみたいだが、やがて裸の木は年の暮れを迎えた。お正月の曙にぱらぱらと降りかかった初雪をかぶる桜を見てみると、春の前ぶれをほのめかすつぼみであった。「雪・月・華」と、一言で言える日本では、月に照らされるつぼみこそ、死を超克する復活の姿のように思えてならない。

    「復活」は「生き返り」ではない


 復活と言えば、語弊がありそうな気がする。「復活」という「変容の出来事」は、この世の生命に生き返えることではなく、永遠のいのちに入ることである。ヨハネ福音書(11章)には「ラザロの復活」という象徴的な物語が書かれているが、ラザロがこの世の生命に生き返ったとすれば、「復活」と呼ばれ得なかったであろう。その物語の中で、「手と足を布で巻かれて墓から出るラザロ」に向かって、「解いて行かせてください」とイエスは言われる。字面どおりにラザロが生き返ったとすれば、「解いてから服を着せ、食べさせ、家へ向かえてください」と言うはずだが、「行かせてください」というのは意外な表現の仕方である。

 聖書学者アロンソシェケルが指摘するように、この話しは史実ではなく、比喩的なものであり、ラザロは墓から出たとは考えられない。死の現象を見つめながら、「行かせてください」と意味ありげに筆者ヨハネはイエスに言わせているが、どこへ行かせるのかと言うと、死んで永遠のいのちに入った者を「彼岸に入ったままにさせておいてください」と言っているようである。

     「華祭り」と「花見の過ぎ越し」

 十字架に付けられたイエスが今なお生きておられることを証して、キリスト者たちは日曜日ごとに集うが、イエスが復活されたというのは、幽霊の話しでも、地上の肉体的な生命に生き返ったことでもない。復活とは、もはや死ぬことのない永遠のいのちの次元に入り、いのちの源なる神のうちに常に生きることを意味する。
コロサイの教会への手紙では、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのだから、上にある者を求めなさい...あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのである」(3,1−3)と言われている。自分のうちに働く神の力に生かされているのに気づかないのは私たちの日ごろの迷いである。花のいのちは冬のあいだ隠されており、春になるとあらわになる。春は花。人間の死もまた花時にたとえられ、彼岸にそのいのちが開花する。
 
 仏教者は花祭りブッダの誕生を四月上旬に祝うが、地中海の国々では復活徹夜際のことを「花の過ぎ越し」(スペイン語でPascua floridaパスクア・フロリダ)と呼ばれる。仏教では一人ひとりの中に仏性があるというが、キリスト者たちは一人ひとりの中に、人を生かす聖なる者の息吹があると信じている。

          復活は「真生」

 死ぬことに対して不安を感じても当然である。信仰をもって神のみ手に自分をゆだねても、死の謎を解くこともできないし、死後の世界を想像することもできない。信仰者だからと言って、死後の世界を見てきたわけではない。聖書を紐解いても死後の世界について人間の好奇心を満足させるような説明を期待するわけにもいかない。

 だが、聖書では詩的な言葉や象徴的な表現を通してキリストを信じる者の希望が表されている。コリントの教会への手紙では「さなぎと蝶々」にたとえられるような形で永遠の命への信仰を説くパウロは言う、「年をとるにつれて私たちの<外なる人>は衰えていても、私たちの<うちなる人>は日々新たにされていく」。(2コリント4,16)。

 「外なる人」、すなわち、私たちの肉体的な生命が衰えて行くが、私たちの「うちなる人」、すなわち、私たちのうちにそだってきた永遠のいのちや神の息吹というものは日々新たにされる。言い換えれば、衰えていく私たちの肉体をみれば、年を取るにつれて私たちの人生は下り坂であるが、私たちのうちに成長していく永遠のいのちを見れば、人生の秋こそ天への登り道であると言えよう。

 復活のことをギリシャ語で「アナスタシス」というが、「新たに立ち上がり」、「眠りから覚める」、「昇天する」などというふうに置き換えられる。葉っぱが落ち、枝が枯れかけて死んだかのような桜の木には、やはりいのちがあり、死ねない何ものかがあった。だから、春になると、その死から生けるつぼみが生まれ出ていのちが蘇る。

      「復活」は「新生」


 復活の「復」という字は誤解を招き、あたかもこの世の生命へ「再び生き返る」かのようなイメージを連想させてしまうから適切でないように思われる。専門家に叱られなければ、かってに言葉を造ってみたくなる。「復活」よりも「新・活」、「真・身」、「真・活」、「新・真・身・活」、「新・真・生」というように漢字を並べて復活の意味を表したいわけである。つまり、この世での生命に伴なう制約(時間・空間など)から解き放たれた身となって真のいのちに新たに生きることである。復活信仰とは、「イエスは復活した」〔過去形〕という命題に対して頭で納得し、同意するよりも、イエスこそ復活であり、いのちである(ヨハネ11,25)ことをと信じ、今なお生きておられるイエスに自分を委ね切ることである。
 
 そして私たち一人ひとりの復活の出来事は、「自分が死んでから復活するであろう」(未来形)という表現で信仰を表すよりも、「復活であり、命であるイエス・キリストのうちに留まり、キリストとつながっている者は、すでに復活している」ことを信じることだと言わなければならないのである。「生きていて私を信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11、26)。

 (以上は「六甲教会説教箇条書き、2009年、復活の季節」よりの文で、『あけぼの』誌、2009年4月号に掲載)。