尊厳死


 数回にわたって、過剰医療のうちきりと尊厳のある死の迎え方についてのべてきたが、前述のような良い逝き方を望んでも、家庭の介護力が低下するなど、在宅で看取りは難しいということも指摘されている。そうかと言って、何もかも施設任せでは足りない。そこで代案を求める傾向も見られる。家族と協力者の助けで、少しの工夫をしながら親の看取りができたと語るある人は「父も心残りはなかったでしょうし、私たち家族も納得できる最期でした」と言っていた。これは、家族だけで介護の負担を引き受けず、友人たちにボランティアを頼むなど、社会と連携した新しい在宅での看取りをしようとしている人々の、大切な証言である。

 さらに、高齢者の終末期医療に費用がかかり過ぎて、医療保険財政を圧迫しているとの声もあれば、特別養護老人ホームの不足などから、高齢者が治療をほとんど受けないまま長期入院する『社会的入院』の問題を指摘する声も多いけれども、これらの状況における治療に関する判断が、単なる経営上の功利主義的な基準によらないよう注意する必要がある。例えば、高齢者が肺炎などの急性疾患で食事が取れなくなることはよくあるが、これは生命の末期とは言えない。一時的な点滴や経管栄養で再び食事ができるようになることも多いからだ。食べられなくなったということだけで治療をやめれば、高齢者の生存権が侵害される恐れがある。

 それから、お年寄りの看取りで難しいのは、本人の意思が確認できない痴呆症の場合であるが、今ここでそこまで述べるいとまがないので割愛しよう。
とにかく、高齢期を迎えたらどのように最期を迎えたいのかということについて、元気なうちに、配偶者や子供と話し合っておくように勧められる。もちろん、老いや死の話を嫌う者も少なくないが、いざというときに子供が自分の判断だけではなく、親の気持ちを知ったうえで決断できるように、日頃の対話と準備が必要である。

 『死を忘れるな』(ラテン語メメントモリ)というのは、哲学者田辺元が戦後の状況に直面して世論に訴えた言葉であるが、死を忘れた文明はどのように生を生きることができるのだろうか。前述したことを繰り返すが、 科学技術万能主義的な考え方のため、生物学的な意味での生命だけを絶対的なものにしてしまう傾向が最近強くなりつつあるのは納得できない。そうした見方はそもそも、医療の限界に対する認識不足、医療の目的についての誤解に由来するのではなかろうか。
医療の目的について質問してみると、多くの場合にすぐ出てくる解答の中には、病気を治すこととか、痛みを和らげることとか、患者が死ぬのを防ぐこととか、健康を促進することなどがあげられる。しかし、これらの目標はどれも、人間としての患者のためになり、その尊厳が尊重される限りにおいてしか認められないということをあらためて確認したいものである。例えば、ある医療手段が生物学的な意味での生命を長引かせることができるとしても、人間としての患者のためにならなければ、それを使う必要も義務も意味もないとはっきり申し上げたい。
 ここでよく留意してもらいたいのは次の点である。つまり、生命を肯定するのと肉体的な意味での延命を肯定するのと決して同一視してはならないということである。本シリーズの冒頭から述べたように、いわゆる過剰な医療も不足医療も、人間の尊厳を傷つける両極端なのである。

 倫理は数学ではない。数学問題の回答を唯一であるが、倫理の場合は違う。というのは、異なった結論が出ても両者とも正しいということがありうる。具体的に今回の問題に当てはめて言えば、人間の尊厳を基準にして良心的に識別したうえで、二つの異なった判断と決断があり得る。場合によっては経管栄養を続けるべきだという結論と場合によってはさし控えるべきだという結論もありうる。大切なのはあくまでも選択の基準と動機や意向である。