過剰医療の拒否

延命とは文字通り「命を長引かせる」ことである。 現代の医療は著しく発達し、人為的な手段によって患者の命を長引かせることが相当可能になってきた。ところが、どんな場合でも、無理してでも延命をはかるべきかどうかについては議論が分かれる。なぜかといえば患者のためになる延命もあれば、かえって患者の尊厳さえも損なうことにもなりかねないような延命法もあるからである。

延命への努力を怠るとそれがいわゆる安楽殺人事件へとつながるのではないかというふうに一般に懸念される傾向が強いのであるが、無理な延命処置のため患者の尊厳が傷つくことのほうがはるかに心配されるべきではないかと私は思う。

この問題については誤解が多い。最近イタリアでマスコミをにぎわしたエルアナさんの経管栄養中止をめぐって教会責任者ロザノ枢機卿は無責任な発言をし、延命中止のことを安楽殺人と呼んでしまったのだが、宗ではない都はっきり言わなければならない。今ここでできるだけ簡単にカトリック倫理の考え方を明確にしてみたいのである。

まず私たちは技術万能主義の傾向に対して疑問を出さなければならないであろう。技術的な医療手段が著しく開発された結果、それを必要以上に使う傾向が強くなった。いわゆる「やれる以上やらなければならない」という考え方である。20年ほど前に生命倫理が話題になりはじめたころ、流行した言葉のひとつに「神を演じる」というのがあったが、これも最初は「はたして人間が神を演じてよいのだろうか」という疑問の言葉として言われていたが、後に「神の役割を演じることこそ人間の使命ではないか」という意味で使われるようになった。さらに最近では、人間ではなく、一人歩きした科学技術万能主義が絶対者のような役割を果たしてしまっているのではないかという疑問が出てきている。人間を抜きにして、機械そのものが一人歩きしているのではないだろうか。私たちの決断が人間ではなく機械に委ねられてしまったという懸念がそこにある。

現代の先端技術が私たちに突きつける新しい課題に対する答えとは、ボタン一つ押せば即座に与えられるようなものではない。人間という矛盾に満ちた存在と、人間社会の成長の複雑な足取りを冷静に見据えて熟慮する中からしか答えは生まれて来ないのである。刻々に転変してやまない時代の要求との対決の中で、私たちの生命観や死生観を新しい課題に向かって適用させていく試みの中にしか、真に創造的な倫理の可能性はありえないと、私は考える。

はっきり申し上げよう。延命中止は安楽殺人とは違う。治療停止の問題と安楽死の問題はよく間違えられる。日本語で「死なせる」には、二つの意味がある。ひとつは「死に至らしめる」で、他は、「自然に死ぬのにまかせる」という意味である。この区別は、殺人になるような安楽死と、そうでないものとを識別するために重要である。前者は意図的に死に至らしめることになり、後者は死ぬのにまかせ、自然に死ぬのを妨げないことなのである。

不思議にも過剰医療と安楽死と言った両極端の背後に似ている態度がうかがわれる。過剰な治療をあきらめずに続ける態度の背後には、死を正面から見つめて死を受け入れる心の用意が欠けているという問題がありはしないだろうか。また、 完全にあきらめてしまい、患者を眠らせるしかないと考えてしまうときにも同じ問題はあるのではないだろうか。

私はここで第三の道を勧めたい。それは人間の尊厳を大事にするようなあきらめ方であり、医療の限界を認める態度である。このような方法によって性急にすぎる死なせ方も無意味な過剰医療も避けられるであろう。この両極端を避けて、「健全なあきらめ」を勧めているのは「palliative care」(苦痛緩和中心の医療)である。
科学技術万能主義的な考え方のため、最近生物学的な意味での生命だけを絶対的なものにしてしまう傾向は強い、そうした見方はもともと医療の限界を認めず、医療の目的についての誤解に由来する。医療の目標について人に質問したところ、多くの場合すぐ出てくる解答の中で、病気を治すこととか、痛みを和らげることとか、患者が死ぬのを防ぐこととか、健康を促進することなどがあげられる。しかし、これらの目標はそれぞれすべて人間としての患者のためになり、その尊厳が尊重されるかぎりにおいてしか認められないということを忘れたくないのである。

例えば、ある医療手段が生物学的意味での生命を長引かせることができるとしても、人間としての患者のためにならなければ、それを使うのは疑問である。むしろ患者の現在の健康状態とこれからの人生の諸目標を果たす能力との間の質的関係を高めることこそ医療の目的ではないだろうか。そのためにならないような医療手段は負担になり、患者のためにならず、かえって害さえ与えうるものになるのであり、医療の限界を無視したものと言わなければならない。

たしかに肉体的な意味での生命は重要な価値ではあるが、決して絶対的な最高の価値ではない。肉体的な意味での生命は、本人が人間として自分の人生におけるより重要な他のさまざまな価値を実現できるための基盤である。したがって、これらの「より重要な価値」(例えば、自覚による自己意識、他人との関わり、聖なるものとの関わりなど)の実現が達せられないほどに肉体的な生命が衰えてしまった場合、これ以上医療に頼って人工的に延命する必要も意味も義務もない。ここでよく留意してもらいたいのは次の点である。

つまり、生命肯定と肉体的な意味での延命肯定とを決して同一視してはならないということである。いわゆる攻撃な医療(aggressive treatment)も不足医療(undertreatment)も人間の尊厳を傷づける。