ワインと過剰医療

  経管栄養と延命 (2)
 グラス・ワインをやめるのも飲むのも過剰医療になりうる

 人は過剰医療という言葉を聞くと、複雑な機器とか、莫大な治療費がかかるなどと考えがちであるが、必ずしもそうではない。16世紀、カトリック倫理学者のヴィトリア(Vitoria 1486-1546)はスペインのサラマンカ大学で過剰医療について話し、次のような例を挙げている。ある患者が、毎日グラス・ワインを飲むことを止めるようにと医者から勧められた。医者は「それを止めないと命を縮めることになるでしょう」と言った。しかし彼は、「いや、先生、グラス・ワインのひとつも飲めないんだったら、命が長引いてもつまらないよ」と答えた。そこでヴィトリアは結論を出す。この患者にとってグラス・ワインを止めることは過剰医療である。

 このように、カトリック神学では大袈裟な医療を拒否する伝統がある。

 口から食べられなくなった高齢者を経管栄養で延命させることは、必ずしも通常の医療とは言い切れない。場合によってそれをさしひかえても差し支えない。問題は、それが患者の尊厳を大切にしたいからという意図で行われるのか、それとも単に医療費を節約したいからという動機なのかである。

 というのは、倫理的に見て同じ内容の行為が、意向によって違う評価を受けることがありうるのである。
 
 さらに、その医療手段を使うべき時もあれば、使わなくても良い時もあるだろうが、どちらの場合であっても、基準はあくまでも患者の意思と尊厳の尊重である。従って、多少、法的指針を整える必要があり、一度はじめた経管栄養を中止できる要件などを基準化するための議論をする必要があろう。
 
 ここ数年、終末期の医療への一般の関心が高まり、病院も入院時などに延命治療について患者の意向を確かめるようになった。少しでも長く生かしてほしいという要望は減っていくとも言われているし、見込みがない場合、無理な治療は望まない人が増えていくようである。しかし、乱用を避けるためガイドラインが必要であると思う。