経管栄養と延命 (1)

最近、ヨーロッパの新聞をにぎわしているエルアナさんの延命中止を評価したい。平安のうちに死を迎えることが出来てありがたい。残念ながらそのような尊厳死は「安楽殺人事件」とみなしてしまった数名のカトリック枢機卿と司教たちがいる。

その意見は倫理理神学の試験で落第に値するといわなければならないと思う。

「延命」という言葉を聞くたびに私はひっかかる。末期医療で用いられるいわゆる延命法(経口栄養を含む)というのは、命を引き延ばすものだろうか、それとも死の苦悶を長引かせるものだろうか。最近の生命倫理関係の専門学術誌には、このことを扱った記事が多い。たとえば、人工的栄養補給を差控えることについてかなりの議論がなされている。両極端を避けたい。ひとつは、過剰医療で患者を苦しませることであり、もうひとつは無責任な形で死に至らせることである。両極端を避けて、末期医療の制限と限界について考えたい。

昔とはちがって突然死を願う者が増えたようである。一昔前なら、突然死が恐れられていたけれども、近頃はむしろ気がつかないまま、例えば、寝ている間に死にたいと言う人は少なくないようである。

諸聖人の連祷には「突然死から、主よわれらを救いたまえ」というのがあって、それをラテン語で唱えたことを私のような世代の人々はきっと覚えている。現代はその逆のことを望むことが普通の傾向になったのである。
 
現代は以前より長生きする人が多くなり、病院で亡くなる人も圧倒的に多いし、栄養補給のチューブを差し込まれて寝ている末期患者の姿も当たり前のようになった。それを恐れて、昔の連騰とは逆の祈りをする人は「主よわれらに突然死を与えたまえ」と言う。筆者もその一人になりたいぐらいである。

中世キリスト教では「死ぬ術」(ラテン語でアルス・モリエンディ(ars moriendi)を勧める伝統があった。日本でそれに当たるのは、仏教で言う「大往生」といった逝き方であろう。現代、それを望む患者に、家族もその決断を受け入れた場合、過剰医療に頼らず、 別れを告げる中で静かに息を引き取ることができる環境を整えることは望ましいけれども、このような願いに対して抵抗を感じることが医療側にも家族側にもある。それは、悪い意味でのいわゆる「安楽死」のことと酔い意味での「過剰医療制限」を誤解して、混同するからではなかろうか。
 
しかし、患者の尊厳を尊重しながら無意味な医療手段を停止した場合、それは使用義務がない医療手段をやめることであって、決して安楽殺人と間違えてはならない。その場合、私たちは患者のためにならない医療手段をやめているだけであって、患者が技術の罠に巻き込まれてその尊厳が傷つけられることを避けようとしているだけのことである。