人間あいての漁師、人間を生け捕る漁師

    六甲教会説教箇条書き、 09−01−25  マルコ1,17

 海岸の近いところに漁師たちが小さな船でつりをしていたが、その日たまたま魚が取れなくてこまっていた。「今日は、なかなか引っかからないなあ」と一人の漁師が言った。そろそろ帰ろうかと思っていたところ「助けて」という声がした。海岸のほうから船の近くまで泳いできていた者が急に痙攣したので、泳げなくなっておぼれそうになっていた。そこで漁師たちはその人を助けようとした。船から紐と救命袋をなげかけたりした。そして一人の漁師は海に飛び込んでおぼれそうになっていた人を捕まえて無事に船まで連れてきたが、皆で手伝って引き上げた。命拾いした本人が感謝したとき一人の漁師は冗談を言った。「今日は魚が取れなかったけれども、人間が取れてよかった」。

 魚を捕って海から外へ出すと魚が死ぬ。おぼれそうな人を捕まえて海の外へ引き出したらその人が命拾いする。

 このたとえを導入にすればペトロたちにイエスが言った言葉が分かりやすくなる。

 「あなた方を人間を捕る漁師にしよう」(新共同訳、マタイ4,19;マルコ1,17)。「人間あいての漁師にしよう」(本田哲郎訳)。

 ルカ5、10の場合、ペトロに向かってイエスは言う、「あなたは人間を捕る漁師になる」(新共同訳)、「人間あいての漁をする」(本田訳)。

 ルカのギリシャ語の原文は興味深く、「人間を生け捕る、生きたままで捕まえる」と言っている。なるほど、イエスが引き起こした「人間救いの運動」に加わるようにペトロたちが呼ばれている。

 「人間を捕る」というのは人間を危険から救い出し、生きるようにたすけることであり、生き生きして本当に生きがいをもって生きるように人を助けるということである。

 そういった「すべての人が兄弟姉妹として共に生きる仲間つくりの運動」(福音書の用語で言えば「神の国の建設」)へと私たちも呼ばれているのである。