六甲教会、聖書研究箇条書き、2009年1月19日

ヨハネ11、1−54  ラザロの生き返り

ラザロの生き返りの話は史実の記録ではなく、象徴的な物語を通して信仰を表すものであり、「史実の記録」や「事実の情報」よりも「信仰の現実」に触れさせる話です。

エスは奇跡的にラザロを蘇らせたのではありません。自分の命を私たちのために捨てたイエスが死に打ち勝って生きているから、イエスとつながっている私たちは死んでも生きるという信仰を伝える話です。
 
 小見出しには「生き返り」という語を意図的に使いました。それは、新約聖書で「復活」と呼ばれている出来事がけっしてこの世の生命に生き返えることではなく、永遠の生命に入ることを意味するからです。したがってラザロの身に起こったと言われていることは、正確には「復活」と呼ばれ得ません。だからイエスは復活されたと言うときに爬其れ和この世の命に生き返ったと言う意味ではなく、永遠の命に入られたと言う意味であり、死ぬことがありえない神のいのちのうちに今尚生きておられるということです。

 そのためにヨハネはいかにも象徴的に、墓から出てきたラザロの姿をこう描いています。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言った」(11・44)。
 
 「ほどいてやって」と言わなければならなかったのです。そう言ったのは、イエス自身でした。ラザロをほどいて行かせてやらなければならなかったのと同様に、死に対する恐怖によって束縛されていた弟子たちをも解放してやらなければならなかったのです。そのためにこの物語の初めに、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」(11・3)と言われたとき、イエスはすぐ治しにいくことはしないのです。後に「あちらに行こう」と言われたとき、弟子たちの中には、心配して、「先生、ユダヤ人たちは先ほども石打ちにしようとしたのに、また、そこへ行かれるのですか」と言う者がいました。

 結局、友人の病気を前にしても先生が殺される危険を前にしても、弟子たちの根本間題は、死に対する恐怖と不安であったのです。まさにこうした不安から人間を解放することこそ、いわゆる「奇跡」よりも大きな奇跡であると言えるのではないでしょうか。つまり、一人の死人を生き返らせるよりも、死に対する恐怖のあまり希望を失った人間に希望を取り戻させることの方が、より大きな奇跡であるということです。

 それは、この話の頂点をなすイエスの次の言葉の意味です。「わたしは復活であり、生命である。わたしを信じる人は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる人は皆、けっして死ぬことはない」。ここで言われている「いのち」とは、この世の生物学的な意味での生命に生き返るときの生命でも、単なる life after death(死後生きながらえること)でもありません。それはむしろ、現象としての生と死を越えた真のいのち、永遠の生命 life beyond death なのです。