負かされたものを生かし、実を結ぶ

  六甲教会、説教の箇条書き、年間33主日、08-11-16  

 マタイ福音書の25章29節と13章12節に引き合いに出されている格言はあいまいです。「持っている人はさらにあたえられ、ゆたかになる。持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」。

 この言葉をそのまま受け止めたら、今の経済危機に対してアメリカの政権がとった対策を裏付けるために利用されることにもなりかねないでしょう。政府は巨額の金を金融機関につぎ込む。そうすると企業や銀行などが助かる。しかし働いている人が助かるかどうか別問題です。

 金を持っているものが助かるだけで働いているすべての人がたすかるとはかぎらないのです。どうも一部の人の利益だけを中心にする経済のあり方をささえるためにはこの格言が利用されればこまります。

 言うまでもなく今日の福音書のたとえ話で展開されているこの格言はそんな意味で解釈されてはいけないでしょう。むしろ、マタイ25章の他の例え話しと同じように、責任に目覚めさせる言葉です。

 どんな責任というとあたえられた賜をよく生かす責任、負かされたものを使ってよい結果を生み出すように、いただいた土地を耕し、いただいた種を蒔いて実を結ぶように、そうするように励ます言葉です。

 その意味がよく伝わるようにこの格言を、言葉を置き換えて、意訳でいいから、翻訳しなおしてみましょう。

 「持っている人で、もっているものを使って実をむすばせない者にはもっているものまでもとりあげられる」。私たちはんみな生まれつきで良い畑のようなものです。それをたがやし、実を結ぶようにすれば、やはり「いただいた可能性を生かしたものには尚与えられるでしょう。

 そしてこの意味を世界経済にあてはめれば、すべての人が助かる資源の分配を目指すようにということでしょう。グローバルと呼ばれているやり方は本当にグローバルになるように。つまり一部の人だけ富めるようにするグローバル化ではなく、すべての人が助かるグローバル化になるように...