イエスは「神殿の宗教」に抗議した

六甲教会、説教の箇条書き。 22008年11月9日

本来ならば、11月9日は年間32主日典礼にしたがって聖書朗読を行うはずでしたけれども、残念ながら「ラテラン教会の捧堂」という記念に変えられてしまっています。私たちにとって「ラテラン教会の献堂」はピンとこないだけではなく、実はその祝いをしたくないのにはちゃんとしたわけがあります。

「聖書と典礼」に書いてあるように、「「ラテラン教会とは、4世紀、コンスタンティヌス大帝によるキリスト教の公認とともに、教会に寄贈された宮殿(元来ローマラテラニ家の邸宅)に建てられた大聖堂です]。

コンスタンティヌス大帝から教会が公認され、保護を受けたことは教会にとって大きな「ひもつき」でもあったということを忘れたくないです。権力者たちから迫害を受けたときに清められた教会は、逆に、権力者たちから守られすぎたとき堕落したことも事実です。

西洋の歴史を振り返ると分かるように、教会はコンスタンテイヌスの公認と保護を受けてからこの世の権力者たちと相当な妥協をし、権力者から援助をもらうかわりに、その援助には「ひもっき」がつきまとい、教会が権力者によって利用されることは少なくなかったのです。そしてそれだけではなく、教会のほうから権力を握ってしまうこともありました。ローマなどに観光旅行をすると、ローマの諸教会に飾られている貴族や権力者の絵や彫刻や立派な墓などには権力者とつながった教会の暗い歴史の面影があることがわかります。

だからラテラン教会を祝う気持ちがないことがお解りでしょう。

さいわいに、この日の典礼に読まれる福音はイエスが神殿の宗教を批判する場面ですので、ちょうど教会と権力者との妥協について注意するために都合がよいのです。

では、ヨハネ福音書で描かれている場面を読んで神殿の宗教を批判するイエスから学びまそう。

神殿で物を売っていた商人たちをイエスが神殿から追い払います。それは神殿の公式な宗教とイエスがもたらす宗教との間の対立をあらわしています。当時、神殿中心の宗教には宗教界と政治・経済の世界の支配階級がそれぞれ結託し、その中心は神殿に置かれていましたが、彼らは羊によって象徴的に表わされる民衆を抑圧していました。その抑圧は宗教を隠れみのにしていたので、イエスはこれを告発します。

エスは羊たちに象徴的にあらわされている民衆にいのちと自由を与えるために、羊たちをその制度、その体制の外へ連れ出して行きます。これからは古い神殿の代わりに、イエスを囲んで集まる共同体こそ神殿にとってかわるものです。イエスを囲んで集まる新しい共同体こそ、神の場、神を礼拝する場となるのです。

 現代の教会もこのイエスの立場に立つようにしたいものです。