イエスの復活とは、ラザロ物語の「いきかえり」とは違う。

六甲教会「使途信条研究会」箇条書き(08・10・02)

まず、「三日目によみがえった」という表現にこだわらないように。三日間が経ったのではなく、「決定的に永遠の命に入った」という意味です(ホセア6,2)。

そして「復活した」という言葉も「この世のいのちに生き返った」というふうに受け止めないように注意しましょう」。(民間宗教のレベルではこの世の命に生き返ることと間違えられますが...)。
十字架に付けられたイエスは今なお生きておられることを証してキリスト者たちは日曜日ごとに集まります。イエスが復活されたというのは、幽霊の話しでもなく、この地上のいのちに生き返ることでもありません。

復活は死に対する命の勝利であり、もはや死ぬことがなく、神様のうちに永遠に生きることであって、復活した方こそ「生きている方」(黙示録1,18)です。
復活するとは「墓から死体が蘇る」とかいう表現で適切には表わせませんし、ラザロ物語(Jn 11章)のような蘇りでもないし、蘇生術によって死体に生き返らせることでもないのです。
エスは今尚生きているということは科学的に証明されるようなことでもなければ、歴史研究によって立証されることでもありません。その信仰を実践している共同体(キリストの体とキリストが引き起こした運動の延長である共同体)が復活の証です。殉教者たちは復活の典型的な証人です。

ヨハネ福音書では象徴的にいます。「門が締め切っていたのにイエスは彼らの間に現れた」(Jn20、19)。しかし壁を通して魔法的に入ったのではありません。いつも常に彼らの間にいたが、彼らはまだ気づいていなかったのです。出現のときにデジタルカメラを持つものがいたとし、写真を撮ったとしてもその写真には復活者が出てこなかったでしょう。なぜかと言えば、信仰の目(Eph 1,18)でしか見えないからです。
Lc 24,36:「彼らの真ん中に立ち」 (ギリシャ語で:este en méso autón)。
Jn 20,19:「イエスが真中に立っていた」(ギリシャ語で:éste eis to méson”)。
外からとか上から来られるのではあえりません。すでに中心におられるのです。いや、来られたというよりも現れた(epiphany)といったほうがよいです。

復活という言葉はラチンガー教授が40年前に言っていたように、「肉体の蘇り」という言い方を見直すべきです。死んだ肉体が魂を取り戻すようなことではなく、体から離れた魂の存続でもなければ、生前の体を取り戻すことでもありません。むしろ死を通して変容され、聖霊の息吹によって永遠に神のうちに生きるようにさせられることです。