たとえ話から学ぶ

  六甲教会説教箇条がき、年間26主日、2008年9月28日

 『父親は兄に言った。「ブドウ畑に働きに行きなさい」。兄は「行きたくない」と言ったが、後で考えなおして、行った。父親は弟に、「働きに行きなさい」と言った。彼は「はい」と言ったが、行かなかった』。

 登場人物には二人の兄弟。この話を「善玉悪玉」に分けて受け止めがちでしょう。しかし、自分がたとえ話に出てくる兄に似ているのか、それとも弟に似ているのかと考えるよりも別な読み方してみようではありませんか。このあいだ学生たちにこのたとえ話を紹介したら一人の学生は次のように話を作り直してみました。

 『登場人物は二人の兄弟ではなく、四人の兄弟だったとしよう。一番目は「行きなさい」と言われて「はい」と言って働き行った。二番目は「行きなさい」と言われて「はい」と言ったが、行かなかった。三番目は「行きなさい」と言われて「行きたくない」と言って行かなかった。四番目は「行きなさい」と言われて「行きたくない」と言ったが、後で考え直して行った。

 なるほど、学生たちの想像力がいいと私は思いました。

 ところが、この四人の中では自分が誰に似ているでしょうか。実は、自分が一人だけにではなく、その四人ともに似てるところをもっているのではないでしょうか。四人とも私自身の中にいると言えるかもしれません。私という者はそんなに複雑なんですよ。そこまで気がついて初めてこのたとえ話を通して「私とはどういうものか」ということを教わります。たとえ話は私とはだれかが分からせてくれるものです。

 でも、それだけではまだ足りません。もう一歩進んで読み方を深めていきましょう。
 
 たとえ話ではイエスとは誰かと言うことも教えられています。イエスとは私を無条件に受け入れてくださる方です。イエスとは、先の四人兄弟に似ているところを持っている私という者をあるがままに受け入れてくださり、私というものを私自信から解放してくださる方なです。

 このようにたとえ話は「私とはだれか」が、「イエスとは誰か」がわからせてくれます。さらに、たとえ話は私たちを揺さぶり、回心へと呼びかけます。

 当時の宗教指導者たちと対決するイエスは彼らが人を善玉悪玉に分けて自分たちを善玉のほうに位置づけていることを批判し、「娼婦たちがヨハネの呼びかけに答え、ヨハネが説いた解放の道に入ったのに、あなたたち宗教指導者たちはその呼びかけに耳をかさなかった」と戒めるのです。

 福音書に出てくるいろいろなたとえ話をこのように読んでみましょう。つまり、この三つの視点からです。
 1)たとえ話を通して「私とはだれか」が分かります。
 2)たとえ話を通して「イエスとは誰か」がわかります。
 3)とえ話は私を揺さぶり、心を入れ替えるように呼びかけるのです。