十字架は罰ではない

 六甲教会説教箇条書き08年9月14日、十字架の称賛

 キリストの十字架上の死は神からの罰ではない。

 9月14日に典礼の暦では「十字架の称賛」または「十字架の勝利」となっております。勝利とは「負けるが勝ち」ということですが、イエスの死は世間的にみたら敗北ですが、イエスを復活させる神様からみたら勝利であり、愛の勝利です。

 ところで、当時の宗教と政治の指導者たちによって死刑に定められたイエスの死の意味について誤解が(カトリック信者のあいだでも)少なくないので、その意味を取り違えないようにしたいです。

 たとえば、「キリストの十字架の死によって私たちは購われた」というとき、「あがない」ということばは、「つぐない」とか「罰」とか「払い戻し」とか「買戻し」というイメージを思い起こすことがあります。戦争終結後、捕虜を賠償金と引き替えに返還する(買い戻す)ということもその一例です。しかし、聖書では「あがない」という言葉の背景にあるのは、「解き放つ」という意味です。あがないは、買い戻しの支払いではなく、解き放つことであり、罪を滅ぼし、人を神と和解させることです。

 ギリシア・ローマ文化の影響を受けた者の中には、あがないを「買い戻し」という狭い意味に解釈する者も多かったです。中には「キリストは自分の血で支払って、悪魔からわれわれを買い戻した」などと、冒とくとも言える意見を述べる偏った説教さえ現われてきました。こんな考えはキリスト教に反するばかりでなく、恐ろしいあやまちです。

 またこれほど誇張はしないが、「キリストの血が神の怒りをなだめた」と説明する人もいました。この言い方も適切とは一言いがたく、誤解を招きます。

 「つぐない」という言葉も、誤解のもとであり、罰と結びついてしまいます。今目でも、刑務所の苦痛や臨終の苦悶によって罪がつぐなわれるといわれる場合がありますが、それは、苦痛や苦悩こそつぐないにとってもっとも重要だ、と考えられてしまうからでしょう。その根底にあるのは、「報復を要求する正義」の考えであり、こうした正義の発する怒りをなだめなげればならない、とする見解です。

 このような考え方は、時にはキリスト教的と言われたりするのですが、実は、キリスト教のつぐない観念とはほど遠いです。しかし残念ながら、中世的な慣習やものの考え方、特に北欧の考え方は、説教者や著述家に好ましくない影響を与えました。そして、「キリストの受難は神の怒りをなだめる罰である」とか、「苦痛や死は罰である」とか、さらに、「神は罪人に無限のつぐないを要求しているが、それを支払えるのはキリストの血のみである」といったまったく誤った考えが強調されるようになったのです。

 (今でもある特定の霊性や運動によってこの考え方が教会内でも伝えられることがありますが...)。
 
 もっと思い切った説明をしましょう。「十字架こそ救い」というひとことは誤解の元だと言わなければなりません。イエスは私たちの救い主であると言われているのは十字架で「死んだから」ではなく、十字架で「死んだにもかかわらず」です。十字架に死んだにもかかわらず、今尚生きているから私たちの希望の根拠です。

 キリストの十字架は何よりも和解とゆるしあいのしるしです。キリスト者たちは死刑制度に反対するとき、この和解の精神を促進しようとしています。

 この間、日本でまた残念ながら死刑が執行されました。その時、法務大臣の失言がありました。「日本には死ぬことによって償う伝統があるから死刑を執行します」という暴言でした。私たちは「死んで償う」のではなく、「生きている者の和解によって互いに生かし合う」ことを求めたいでしょう。