『使徒信条をめぐって』−1、2、3−

六甲教会宗教教育箇条書き。『使途信条をめぐって』−1−


使途信条の順にしたがってキリスト教の教えに関する「箇条書き」を積み重ねていきたいと思います。
このノートは毎月、第1と第3月曜日に六甲教会で集まっている数名の話し合いを踏まえた上でまとめた箇条書きにすぎないのですが、信仰入門を担当する方々および宗教教育にb携わる方々のために参考になれば幸いです。

 使途信条の三つの部分は:イ)父なる神、ロ)イエス・キリスト、ハ)聖霊、です。

 天地の創造主:すべてのものの根拠や源であり、全てを創造し、支え、導く方。

 天地の創造主、全能の神である父

 「全能」という言葉について二つの幼稚な捉え方があります。イ)神は何でもお出来になるのだから、どんな罰があたるか分からないという受け止め方、ロ)神は何でもお出来になるのだから、何でも与えてくださるだろうという受け止め方。

 全能:私たちの弱さを強め、私たちの力を力たらしめる方。

 創造主に関しても誤解があります。ただ単に、昔、神は世を創られたとだけ理解するのでは不十分です。全能の創造主への信仰は、次の要素を含みます。それは、過去において私たちを創り、現在において私たちを支え、未来に向かって私たちを導いてくださる方が、すべてのものの根源であり、私たちはいつもその方の内に生きており、その方によって生かされているという信仰です。

 そうした神こそ、イエスが教えてくださった「天の父」と呼ばれる方です。 イエスが教えてくださった天の父が、わたしたちが神について抱いているちっぽけなイメージをはるかに越える方です。

 神と言うことばはもともと民間宗教の言葉である。全能と言うことば抽象的すぎる。父ということばはイエスが使った言葉であり、父なる・母なる神にむかって用いられると、神は近づきやすい方として感じられます。

 『使途信条をめぐって』-2-

 イエス・キリストを信じます

 他の宗教にも見られる現象ですが、キリスト教も例外ではなく、やはり時代と共に発展するにつれて付随的なものがつけ加えられてきます。そして、必然的に理屈も儀式も規律も、いつのまにか、増えてしまい、創立のころの簡単な信仰の持ち方が複雑になってしまいます。

 ヨハネは「イエスにおいて真実のいのちが現れた」と言います(新約聖書ヨハネの第一の手紙、1,5参照)。このヨハネの手紙の冒頭にキリスト教の要約が見事に簡潔な形で表されています。イエスが伝えた「福音」、「良い知らせ」とは、一言で言えば、「いのちの源である方から人間は子供として愛されているので、人間には希望と生き甲斐が与えられており、兄弟姉妹の世界を作っていくように励まされている」ということに尽きるのです。

 「真実のいのち」についてヨハネの手紙では次のように書いております。

 「はじめからあったもの、私たちが聞いたもの、私たちの手で触ったもの、私たちの目で見たもの、すなわち、命のことばについて・・・そのいのちが現れた。そして、父のもとにあったが私たちに現れたその永遠のいのちを私たちは見て、あなたがたに証しし、告げるものである・・・私たちが見たもの、聞いたものをあなたがたにも告げ知らせる。それはあなたがたも私たちとの交わりに与るようになるためである。私たちの交わりとは父とその御子イエス・キリストとの交わりである。そして私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためである。私たちは彼から聞いており、あなたがたに告げ知らせるのは、神は光であって、彼の中にはいかなる闇も存在しないということである・・・(1ヨハネ1,1−4)

 この数行は『キリスト教入門』という題をもった多くの書物よりも、信仰の真髄を明らかにしてくれるのです。教えの中心は真のいのちです。「いのちの源」のことは「父なる神」と言われています。 その奥義はイエスにおいて現れました。イエスはその表現であり、「いのちのことば」と呼ばれています。
 
 この手紙の差出人は複数の形(私たち」)で話しています。宛先人も複数です(あなたがた)。

 交わり(ギリシャ語でコイノニア)という語彙も大事です。永遠のいのちの源なる「天の父から」、永遠のいのちの現れである御子を通して、私たちに永遠のいのちが与えられ、私たちを一つに結びます。

 キリスト教のこの信仰を短く表すのは十字架のしるしを示しながらキリスト者たちの唱える「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」という祈りの言葉です。

 『使途信条をめぐって』-3-

 イエスはキリストである。

 ナザレ生まれのイエスはキリストと呼ばれています。

 キリストとは、神から「遣わされた」者、「選ばれた」者、「油を注がれた」者、またはメシアすなわち救い主であり、私たちに救い(希望)をもたらす方だと信じている人にとってその名称は「主イエス・キリスト」です。言い換えれば、イエス(真の人)は主(真の神と同一のもの)であり、私たちに救い(希望、生き甲斐、ゆるし、永遠のいのちなど)をもたらすキリスト(遣わされた者、来たるべき者)だということです。

 イエス・キリストとのめぐり合い

 弟子たちの場合:1.生前のイエスに接しました。2.その教えから学びました。3.イエスの死後は「イエスがキリストである」と言えるようになった。

 私たちの場合:1.イエスの教えについて学びます(たとえば、本など)2.イエス・キリストを信じる人を通して学びます。3.内部から自分自身で「イエスがキリストである」と言えるようになります。