聞く耳のある者

 六甲教会の説教箇条書き(08-07-13,年間15主日A年、マタイ13,1-23)聞く耳のある者

「被造物がすべて共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている」とパウロは言います(ローマ書8、22)。言い換えれば「神様によって作られたすべてのものが呻きながら待ち望んでいる」。何を待ち望んでいるかと言えば、新しい天と地になるように。神様の輝きが移る新しい天と地になるように待ち望んでいます。

創世記(創世記1)で言われているように、神様が作られたものはもともとすべてがよかった。人間の心も生れつきよかった。地球も人間の心も良い畑、良い土地のようなものでした。しかし、人間は地球環境も自分の心も荒地のようなもの、荒れた土地のようなものにしてしまいます。せっかく良いものだった地球も、せっかく神の似姿にかたどって作られた人間の心も、荒地になってしまいます。だからパウロが言うように「すべてのものが呻きながら産みの苦しみを味わい解放されるのを待ち望んでいます。この言葉は最近とくにわたしたちにとってピントくるでしょう。国際会議で集まった発展国の指導者たちの失敗、地球環境の破壊と人類の貧富の差および不平等に関する政治家たちの無感覚と無関心は情けないですね。

イザヤの言葉も命を歌っています。「雨が降って大地を潤し、芽を出させ、種蒔く人には種を、食べる人には糧を与える」(イザヤ55、10)。しかし最近人類は森と林を伐採して、緑をなくして地球を荒地にしようとしているのに、自分の利益と自分の権力の拡大しか考えない国の指導者たちは地球のうめき声も、困っている民衆のうめき声も聞いてくれないのです。
 
 そうした状況を背景にイエスが語った例え話しはあらたに響きあいます。「種を蒔く人は種を蒔いた...良い土地に落ちた種は実を結んだ」。

エスの語ったたとえ話というのは二つの狙いがあります。一つは話しを分かりやすくすることです。もう一つは聞き手に戸惑わせることです。

 種幕人の例え話しを分かりやすい話として読むことができます。たとえば、聖書の言葉は種です。それを心に受け止めて、心に刻んで実践で実らせようというふうに受け止めることができます。

 それから、もう一つの読み方があります。禅のお坊さんが語る公安のように、イエスのたとえを聞いてショックを受け、揺さぶられるという読み方です。このように受け止めると私たちはイエスがおっしゃっていた神の国の秘密に気づきます。なるほど、地球も私たちの心ももともと良いもので、良い土地で、良い畑だったということに気づきますが、それを耕して実らせないのはなんともったいないことでしょうか。

聞く耳のある者は聞くがよい」というイエスの言葉に耳を傾けて創世記のはじめに出てくる話を思い出します。(創世記2, 5-6;4, 10-12)。
 
 次のように書かれています。「地にはまだ野のいかなる灌木もなく、野のいかなる草も萌え出ていなかった。神が地に雨を降らせず、大地に仕える人が存在していなかったからである。」このように灌木のない状態、言い換えれば緑がない大地について書かれてあります。どうして緑がないのかと言えば、二つの理由が挙げられています。一つは雨が降らないことです。もう一つは大地を耕す人間がいないからです。天から雨がふり、人間が大地を耕すという二点です。雨は人間が作ることのできないいただきものです。大地を耕すのは人間の働きです。この二つは合交わって緑と実りが出て、大地が潤います。

 ここに人間の手の二つのしぐさを想像してみましょう。人間の手は合掌する手であり、仕事する手でもあります。天から雨を頂きます。頂き物に対して合掌して感謝するのです。そして大地を耕して手を使って働くのです。
 
「耕す」という言葉は言い換えれば、「大地に仕える」ということです。 このように理解すると、大地を耕すということは人間に与えられた使命であり、そうして実らせる責任は人間に委ねられていることがわかります。手で合掌するだけでは足りないので、手で働かなければならないのです。
 
 ところが、ここまでで話が終わればきれい事に終わってしまいますが、実は合掌したり、働いたりする人間の手は人殺しする手でもあるのです。それは同じ『創世記』4,10-12に出てくるカインとアベルの話を読めばわかります。「神は言った。何ということをしてくれたのか。声がする。あなたの弟の血が大地から私に叫んでいる。口を開けて、あなたの手から弟の血を受け取った大地によって今や、あなたは呪われる。あなたが大地に仕えても、もはや大地はあなたに産物をもたらさない。」
 
 このように『創世記』の2章と4章から引用した二つの個所を読んで聖書の生命観における重要な要点がそこに著されていることに気がつくのではないでしょうか。
 
いのちとは、「いただきもの」であり、「預かりもの」であり、「壊れやすいもの」なのです。そして、「合掌する手」、「働く手」、「人殺しする手」、これが人間の姿です。
 従って、頂いたいのちに対する私たちの態度は次のようにまとめられます:

 イ)頂いた賜に対して「感謝」すること。

 ロ)課題や使命として、与えられた与りものに対してそれを実らせる「仕事」に取りかかること。

 ハ)壊れやすいものに対する「気遣い」をもっていのちを見守ること。特に人間の心の中には善・悪の両面があるから、悪が打ち勝って命がお粗末にされてしまう結果にならないように気をつけたいものです。