加害者と被害者

 六甲教会説教箇条書き。08・07-20、A年、年間16主日、毒麦の例え話しとゆるしの意味
 
 この例えを聞くと、ともすれば人を善玉悪玉に分けて考えがちかもしれません。自分自身をどちらの陣地に位置づけるでしょうか。実は自分自身の心のうちに両者(善玉悪玉)のようなものがあるということに気づきたいです。

 一例をあげましょう。テロや通り魔事件があったとします。犯罪者は加害者で、殺された人は被害者と考えてもあたりまえのようですが、われわれ皆被害者であるとともに加害者であることを考えたことがあるのでしょうか。だれかが殺されたら、私自信の一部も殺されたので、私も被害者ですが、誰かが犯罪を起したら、その加害者とどこかで似ているところを持っている私も加害者です。私たちは皆、被害者。私たちは皆、加害者ということを認めたいです。それを認めてはじめて暴力と憎みから解放される道が開かれると思います。

 加害者もまた被害者でもあります。加害者は他人を殺したとき、自分自身に対して加害者にもなり、自分自身の中の一番よいところを殺してしまったことになります。それに気づき、罪を認め、心を入れ替えるように願いたいので、犯罪者を死刑にせずに生きることによって償い、回心する機会を与えたいです。キリスト者も仏教者もこの理由のため死刑に反対し、別な償い方を見出すようにしております。

 これに対して「ひどいことをしたのに誤らない者に対してゆるせなしのではないか。ゆるしてくださいというのはあまりにも被害者の遺族に対して残酷ではないか」という声が出ても不思議ではないのですが、実は「ゆるす」ということも「敵を愛する」ということも誤解されています。イエスは敵に対して愛情を感じることを勧めたわけではありません。酷いことをした敵に対して憤慨するのも当然です。イエスは言ったのは「敵のために祈りなさい」ということです。ゆるすということは決して「何もなかったことにしよう、水に流しておこう」ということではありません。ゆるすとは「犯罪者を償いなしに野放しにしてもよい」ということではありません。ゆるすとは「犯罪者に対して愛情を感じる」ことでもありません。ゆるすとは「犯罪に対して憤慨しない」ということでもありません。ゆるすとは、犯罪者のために祈ると同時に、自分自身のためにも祈ることです。犯罪者が罪を認め、回心するように祈り、自分もそして社会全体も憎みの根から解放されるように祈ることです。

 私たちは主の祈りを唱えるときそのように祈ります。私したちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。「ゆるしましたからゆるして下さい」ということではありません。また、「ゆるす限りゆるして下さい」ということでもありません。「あなたからゆるされていることに感謝して、人をゆるすことができますように」という願いです。このように解釈し、説明するために、この文章を次のように三つのポイントに分けてみるとよいでしょう。イ)私たちをゆるしてください、ロ)わたしたちも同じように人をゆるすように決心します、 ハ)しかし、なかなかできませんので、お助けください。

 人をゆるすことは、その人のために祈り、神がその人をゆるして下さるように天の父に祈ることであると同時に、その人をなかなかゆるすことのできない自分のためにも祈ることです。
 さらに、もう一つの大事なポイントは、自分自身をゆるすことができるようにという祈りです。自分を嫌悪し、自分をゆるすことができないということは、私たち皆がもっている大きな弱点の一つだからです。

 敵を愛することができないのは、人間にとって自然のことでしょう。それでも、敵の回心をもとめて祈る力をイエスから与えられるのです。私たちは敵をゆるすことができないでしょう。だからこそ祈るのです。

 犯罪者の心からも、私たちの心からも、そして社会全体からも暴力と憎みの根が根こそぎにされ、平和をつくることができましように。