信じること

 六甲教会宗教教育箇条書き。 『使徒信条」−4− 「信じること」 


 「宗教」のことを「神聖なものに関する信仰」、信仰は「神・仏など、ある神聖なものを信じ尊ぶこと」と説明される(国語辞典)。ときには、「宗教」は「既成宗教」を指し、 「信仰」は宗教的な心のあり方を指して用いられる。

 教科書では次のように使い分ける。宗教性または宗教心(宗教的な態度や信仰の持ち方)、宗教(制度や団体としての宗教)、宗教学(宗教についての学問)。

 要注意:「宗教性」なしの「宗教学」は理屈っぽいものになり、抽象的な思想になりかねないのですが、「学」なしの「宗教心」は「迷信」や「熱狂心」になってしまうことにもなりかねない。

 
 神を信じることは、神が存在することを認めるだけのことではない。信じることと知ることとは違う。信仰では、認識よりも信頼の面が大事である。信仰には当然なこととして、疑いが伴う。

 信仰には必ず、「飛躍」みたいな面がある。信じるとは、神自身によって信じさせられることであり、信じたい心を引き起こすことでもあると言えよう。信じるとは恵みや賜であると同時に決断でもある。

 「私は信じるが、信仰が足りない私をお助けください」(マルコ9,24)という言葉は、信仰者らしい祈りである。

 信じるとは、ある特定の内容を頭で認めることよりも、生き方である。神を信じると信じないとでは、日々の生活や人間関係や直面する出来事などの意味が変わってくる。(そうかと言って自分が立派になったのではない...)。

 「信じる」とは、キリストによって自分の生き甲斐を見いだすことであり、自分の生活に意味を、人生に目的を、宇宙の歴史に方向付けを与えるものを見いだすことである。

 信仰への道を歩みながらまだ信仰者になっていない者にも本人が気づいている以上の信仰があるかもしれないし、信仰者のつもりでいる者にも、信仰の火が消えてしまったり、明滅したりしていることもあろう。

 神は人を通して私たちを招く。この招きのほかに、心に聞こえる神の声という内的な招きもある。この招きに応えて私たちは、「己をゆだねる心」をもって答えるとき信仰の道に入るのである。