和解とゆるし

 六甲教会聖書箇条書き(1)ヨハネ20,23 和解とゆるし

 「誰の過ちであれ、あなたがたが赦すなら、彼らは(それらの過ちが)ゆるされている。誰の過ちであれ、あなたがたが留め置くなら、留め置かれたままである」(小林稔訳、岩波書店、1995)。

 この言葉について二つの誤解が生じやすい。1)罪を許す権能を根拠付けるための言葉であるかのように理解してしまうこと、2)「ある人の罪を許し、他の人の罪をゆるさないでください」と言う意味であるかのように理解してしまうこと。

 以上の二つの間違った解釈を避けるためには次の点に気づきたい。

 イエス・キリストは「世の罪を取り除く」使命をもって遣わされた(1,29)。弟子たち(キリスト者の共同体)はイエスが遣わされたのと同じように遣わされている(20,23)。弟子たちに委託される使命を理解するには二つの重要な前提がある。イ)ゆるしの福音を告げる使命を与える前にイエスが自分の「息吹」(聖霊)を与える(20, 23; 7, 37-39; 16, 7; 16, 20-21; 19, 30-34参照)。弟子たちの使命は言葉による宣教だけではない。彼らはまずなによりも、「平和の使者」であり、共同体作りの使命を与えられている。

 「ゆるしの福音」、「神からの和解と解放」に対してそれを受け入れたくない人々に向かって、イエスがなさったように弟子たちもその状態の残念なことを「指摘」し、それを「告発」し、彼らを改心へと呼びかける。それは20,23における「留めておく」という言葉の含みである。

 窓を閉じたままにいる人に向かって、「惜しいことをしないでください」「もったいないことをしないでください」「窓を開けてください」と訴え続けることである。ただ、本人が窓を開けなければ仕方がない。神は人の自由を尊重する。だから、「彼らの罪がゆるされないままで残る」というのである。

 このように「光に対する罪」が理解される。つまり、それは「窓を閉じたままにしておく」ことに例えられよう。神はその人を裁くというよりも本人自身が自分で自分を裁いた結果となる(3,18-19; 3, 36; 9, 39-41; 8, 24; 15, 22-24)。