教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.99-102

愛され易い者、親切な者

99. 愛することは愛されやすい者になることでもあると言えます。「愛は礼を失わないし」〔または「親しき仲にも礼儀あり」と訳されうる)asjemonéi という言葉に留意したい。愛する者はずけずけと干渉しない、失礼なことをしない、硬くて扱いにくい接し方しない。振舞い方、話し方、身振りなどは快適で、はださわりがざらざらしていない、硬くない。愛は相手を悩ませたくない。礼儀は「自己中心でない感受性」をわたしたちに学ばせ、「心と感覚を相手に向けさせ、感じること、話すこと、沈黙することを教えてくれる。(Octavio Paz の引用、107]. キリスト者にとって親切であることは選択枝ではなく、放棄できない愛の要求です。「どの人間も周りの者に対して親切でなければならない」。たとえ相手は自分の人生の連れ合いあった場合でも、「他者の生活に立ち入ったらデリケートな気遣いを必要とし、攻撃的であってはならないし、信頼と尊敬は日々あらたにされなければならないのです。愛は親密で深ければこそ、相手の自由を尊重し、相手が自分のこころの門を開いてくれるのを待つすべを知る」のです。

100. 他者との出会いのため自分をととのえるには、親切なまなざしで他者を見る必要があります。しかし悲観主義的・否定的な態度でものごとを見るとき、親切なまなざしで他者が見られなくなります。他者の間違いなり欠点が浮彫にされるのです。ときには、そうするのは自分の劣等感を無意識のうちに隠すためかもしれません。親切なまなざしで他者を見たら、その方の限界ばかりにとどまらずに、その方を受け入れ、自分とは違う者であっても共通な計画で一致することができるであろう。親切な愛は絆を造り、結びつきを育て、人が互いにつながるようにし、しっかりした社会関係を確立します。そうすることによって愛は自分自身を守ります。帰属感なしに、他者のためになる生き方は長続きできなくて、そのうちに各人が自分の都合よいことを求め、ともに生きることが不可能になってしまいます。反社会的な人間は他の人が自分のために存在するかのように見てしまい、自分のニーズに答えるのは他者の義務だと思ってしまうので、親切な愛と親切な言葉を受け入れるための余地がありません。真の愛がある者は人をはげまし、力づけ、慰め、よい刺激を与えることができます。その例としてイエスの言葉を思い起こしたい。「子よ、安心しなさい」(マタイ9,2)。「婦人よ、あなたの信仰はりっぱだ」(マタイ15、28)。「少女よ、起きなさい」(マルコ5、41)。「安心しなさい」(ルカ7,50)。「恐れるな」(マタイ14,27)。これらの言葉は人を侮辱せずに、屈伏させず、いらいらさせません。家族の中でこのようなイエスの思いやりのある話し方を学びたいものです。

自我への愛着からの脱皮

101. 人を愛することができるように、まず、自分を愛せねばならぬと言われるが、これは自己の利益ばかり求めよという勧めではありません。自分を愛することができない者は他人を愛することを難しく感じるでしょう。愛の賛歌でパウロが勧めている愛は、自己の利益ばかり考えないことであり、何が他者の為になるかをいつも考えていることです。(ピリピ書 2, 3-4) で、はっきりと言われているように、「対抗意識をもったり、みえをはったりせずに、へりくだって、互いに相手を、自分よりすぐれたものと思いなさい。おのおの、自分のことだけではなく、他人のことにも目を向けなさい」。

102. トマス・アクイナスが説明している通り「愛してもらうよりも、愛することを求めることは愛徳の基本であり、」…「一番よく愛する者は母親です。母親たちは愛されることよりも、愛することを求めるのである」。そのために愛はただで愛し、単なる正義のある関係を超えるものです。そして「何もあてにしないで、貸してやる」ものです(ルカ 6,35)。最高の愛は人の為に命を与えることです(ヨハネ 15,13). ただであげること、最後まで自分を与えること。このようなことをする自己愛着なしの愛は今でも可能でしょうか。福音はそれを求め、勧めています。「ただで受けたものだから、ただで与えなさい。」(マタイ10,8)。