教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia,4章結婚と家族内の愛.103-108

心の内部に暴力をなくそう

103.(愛は怒らず〉と訳されているparoxinétai (パロシネタイ)というのは心の中で抱かれる憤慨を抑えることを指しています。言葉や表情などで表現するのを抑えても、心の中で強い反感を感じているからわたしたちは相手に対して警戒する姿勢で向き合い、相手を避けて通りたい障害物や敵対関係にあるものとして見てしまいます。これは、おもてには現れない内部の暴力とでも言えるでしょう。このような攻撃性を養いたくありません。この攻撃性は、何の役にも立たないし、私たちを孤立にさせ、病気にもさせてしまうのです。健全な憤慨の仕方もあるのです。たとえば、大きな不正なことに対して反応しなければならないとき当然怒るでしょう。しかし、憤慨する心は他者に対する私たちのすべての態度や振舞いに浸透させるのは健全ではありません。

104、こうして怒らないように聖書で勧められています。「まず、自分の目から丸太をとりのぞけ」(マタイ7,5).「悪に負けてはいけない」(ローマ書12,21).「うまずたゆまず善を行いましょう」(ガラテイア6,9).自分の内部からあの攻撃性が沸いてくるのを感じることが避けられないでしょうが、それに同意することを避けたいのです。「あなたがたが腹を立てている間に日が沈むことがあってはなりません」(エフェソ書4,26)。一日の終わりに家族の中で仲直りしましょう。そのためには簡単なひとことやちょっとしたこと、言葉なしの愛撫でも足りるでしょうが、とにかく、和解せずにお休みにならないようにしましょう。人から迷惑をかけられたら心からその人を祝福しましょう。相手の為に祈り、相手の善を願い、神がその人の心を変え、解放してくださるように祈りましょう。そして神がその人をいやすように願いましょう。「兄弟愛と慈しみのこころをもち、謙虚で、悪をもって悪に、ののしりをもってののしりに報いてはいけません。かえって祝福をもって報いなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」(1ペトロ3,9)。

ゆるし合い

105.人に対する悪い感情をわたしたちの腹まで入るのをゆるしてしまえば、その内部に根をおろすでしょう。「愛は人の悪事を数え立てない」と訳される5節 のoú logízetai to kakónは〈ねたみを抱かない〉という意味です。言い換えれば、仕返しをするために相手の悪事の記録を心に刻みたくないのです。そればかりか、相手をゆるす積極的な態度を取ろうとし、相手の弱さを理解し、相手の悪事を大目に見てやれるために言い訳を見いだすほうがよいでしょう。イエスは、十字架に付けられるとき、言いました:「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは自分らが何をしているのか、わからないのです」(ルカ23,34).しかし私たちは度々相手の過ちを根ほり葉ほり探り、相手の悪い志を憶測で考えたり、その悪いと思われるところを大げさに捉えたりします。そのために恨みが大きくなり、ますますこころに根を下します。ちょっとした過ちや落ち度がきっかけとなって愛の絆と家族の安定が動揺します。ときにはすべての問題は同じ程度の重要さとし受け止められてしまいます。そうすると、わたしたちは人の失敗に対して残酷な態度をとりがちになります。自分の権利を主張するのも当然ではあっても、そのやりすぎは自分の尊厳を守らないかわりに、たえざる復讐の精神を育ててしまいます。

106.人から傷つけられたり期待を裏切られたりしたとき、許し合いが望ましいです。ゆるしし合いは可能ですが、簡単ではありません。家族内の一致の絆を保つためには、譲り合いの精神が働く必要があります。相手を理解し、寛容をもってゆるしあい、和解を求める必要があります。どの家族もわかるように、エゴイズムや不一致や緊張や葛藤対立が避けられずに、ときには致命的な傷を与えてしまうことがあります。家族の生活の中でたびたび多くの分裂が起こります。

107.人をゆるすことができるように私たちは、まず、自分自身を理解し、自分自身をゆるすことを学ばなければなりません。多くの場合、自分自身の過ちの為、または、愛する人への批判的なまなざしのため、自分自身を大事にすることを見失ってしまうことにもなりかねないのです。したがって人に出会うことから逃げることがあります。人間関係において多くの心配や恐怖に襲われることがあります。失敗を人のせいにすることは似非の慰めになるかもしれません。私たちは自分の歴史を振り返って祈る必要があり、自分を受け入れ、自分の限界を認め、自分自身をゆるすことさえも学ぶ必要があります。そのようにしてはじめて人をゆるせるようになるでしょう。

108.しかしこのことを可能にするためには、神から私たちはただでゆるされており、聖なるものとされている経験がなければなりません。私たちに先立って私たちのメリットなしにただで神の愛の対象になっています。神の愛はいつも私たちに新しい機会を与え、いつも励ましてくださり、良い刺激を与えています。神の愛は無条件だと受け止めましょう。父の愛はお金で買えないし、お金で返せないのです。このことがわかってはじめてわたしたちはすべてをこえて愛することができるようになり、私たちを不正にあつかった者さえもゆるすことができるでしょう。そうでなければ家族生活は愛し合い理解し合う場ではなくなり、同伴と励まし合いの場ではなくなり、相互の罰や緊張した関係の場になりかねないでしょう。