教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia第4章 結婚生活における愛(つづく)nn. 93-96

人によいことをし、お役に立つように気が利く態度

93. 人に良いことをするすなわち jrestéuetai という言葉遣いはこの箇所にかぎってめずらしいです。Jrestósという形容詞から従来する動詞です。jrestós とは善良な人を指すのですが、良い行いをもって自分の善良さを表す人という意味です。その前の節で言われているのです。

なお、前後関係を見れば、その他の節で言われている「善良さ、寛容、忍耐などはたんなる受け身の姿勢ではなく、積極的に人のためになる行動の仕方とつながっていることがわかります。ときには「忍耐」と訳されがちな「善良・寛容さ」はパウロにとってけっしてなにもしないでがまんするようなことではないのではなく、行動的にして創造的にひとのために役立つ行いを引き起こします。要するに、愛は人の為に良いことをし、気が効いて人に気遣って使える(servicial)のです。

94. パウロの文書全体においてあきらかになるように、愛は単なる感情的なものだけではないのです。むしろヘブライ語の「愛する」という動詞のように、「善を行う」という意味合いを含んでいます。

イグナチオ・デ・ロヨラが『霊操』で述べているように、「愛は言葉よりも行いにおいて示されるべきです」[106].行いをとおして初めて愛は実を結びます。行いにおいて愛は人に何かを与える幸せを感じさせます。ゆたかに自分自身を人に与えることにおいて愛の尊さと偉大さがあります。みかえりを期待せずに、報酬を請求せずに、愛はただで与え、ただで人に使えることを楽しみにしています。

妬みをいやす

95. 次に、慈愛に反対するから拒否されるべきものとして妬み(嫉妬、妬み、zeloi)があげられています。愛があれば、相手の善のために悲しむ余地はなく、むしろ相手の善のために喜ぶはずです(cf.使徒伝 Hch 7,9; 17,5:).

妬みは他者の善のための悲しみです。妬みの念をいだくときわたしたちは自分自身の幸福しか考えないで他者の幸せに対して無関心になってしまいます。愛は私たちを自分自身から出るようにさせ、妬みはわたしたちを自己中心的にしてしまいます。真の愛は他者の成果を評価し、自分への脅威としてそれを受け取らず、妬みに伴う苦い経験におちいりません。真の愛があれば人がそれぞれの良さを賜っており、それぞれの人生の道を歩むことが認められます。したがってしあわせになるための自分の道を探そうとしながら、他の人が自分たちの道をみいだすのを妨げないのです。

96. 要するに、神の掟で言われているように、「隣人のすべてのものをむさぼってはならない」(Ex 20,17)、 愛は各人を誠実に評価させ、各人がしあわせになる権利をもっていることをみとめさせます。愛していればその人を神のまなざしで見るようになります。神は「あらゆるものをわたしたちにゆたかに与えて楽しませます」 (1 Tm 6,17)という言葉を思い出しますが、相手が今良い時を過ごしているのを見てわたしも納得してよろこびます。

そして同じ愛によって促されて不正に対し憤慨します。愛に促されて社会でのけ者にされがちな人が排除されないように求めます。ある人が富んでいるのに他の人が飢えているのを見て耐えられません。排除されがちな人がせめてすこしぐらいの喜びを味わいたい、それは妬みではなく平等への渇きです。