教皇フランシスコ著『愛の喜び』 第4章結婚生活における愛(つづく)nn. 91-92 

忍耐が伴う寛容

91. まず一番はじめに13、3節で注目される基調の言葉は「善良な寛容または忍耐」と訳されるギリシャ語のmakro-thymía すなわち「こころの広さ、腹の太さ」という語です。「すべてを耐え忍ぶ」ことだと訳せば、十分にその意味が伝わらないでしょう。(なお、「耐え忍ぶ」という言葉は最後に7節に使われています)。3節の「善良・寛容・忍耐」という言葉の意味は旧約聖書に出てくる「神の情け深さ」を表すために用いられる言い回しから従来しています。それは「神は怒るに遅く慈しみ深い」という神の憐み方の特徴です。 (出エジプトEx 34,6;民数記 Nm 14,18).

「苛立たず、人に挑発されて怒らさせられても、それにのっていかったりしないとき」、人は仕返しする欲望にかられずに、相手の攻撃を攻撃で返すことを避けるときそうした「心の広さ、腹の大きさ」が表れます。〔聖書では〕神と民の関係は婚姻の約束に例えられていますが、民が神を裏切っても神は民を裏切らない誠実さや約束への忠実を発揮します。そうした神の態度を家族生活の中で模倣するようにわたしたちは招かれています。

パウロは前述したmakro-thymíaの背後には知恵の書で語られている「神の情け深さ」のこだまが響き合います (cf. 11,23; 12,2.15-18)。神は怒るにおそく、人が思い直して痛悔し、心を入れ替える余地があるように待ちます。神は全能ですが、その全能を表すのは慈悲深さを通してこそです。神の忍耐は罪びとに対する慈悲深さを表してこそ証明されます。

92. 忍耐強い善良さ・寛容
は、たえず虐待を受けても我慢するという意味では決してなく、身体的な虐待も物扱いされてしまうことも耐え忍ぶことではありません。どこに問題があるかと言えば、それは、わたしたちが相手との関係を理想的〔天使的〕であり、完全なものであるように要求するときや自己中心的に我を通そうとするときです。そんなときには自分に合わないどんな小さなことに対しても耐えられずに、すぐ攻撃的になりがちです。

〔怒るに遅い神様の忍耐を育てなければ、怒って反応するための口実はいつも見つけるでしょうし、共に生きる、共に生活することができない反社会的な人間、自分の欲望を抑えられない人間になってしまい、私達の家族は戦場みたいになってしまうでしょう。神の言葉は私たちを公戒めます、「すべての苦々しい思い、憤り、怒り、とげとげしい声、ののしりを、すべての悪とともに除きさりなさい」(Ef 4,31).

この善良さ(忍耐)を確立させるには相手がわたしと同じように、とともに生きる権利があり、あるがままの相手を認める必要があります。私にとって邪魔になっても、私の計画を妨げても、相手の生き方や考え方が気に入れなくても、また私はわたしが期待していたとおりの者ではないにしても、 [慈愛があれば]受け入れられます。愛はいつも情け深いものです。相手は私の期待どおりに振舞わないときにも、慈愛があれば相手を受け入れ、相手は私と同じようにこの世にあるがままの自分として存在すること認めることができます。
人によいことをし、お役に立つように気が利く態度