教皇フランシスコ回勅『ラウダート・シ、主に賛美』 (つづく、2章、65番〜70番)

(2章、II ) 聖書物語に見る知恵

65.... 創世記の最初の創造物語では、神の計画は、人類をつくることを含みます。人間の創造の後、「神は、作られたものは皆よかった」(Gen 1,31)。各人間はが愛によって造られ、神の似た姿として(cf. Gen 1, 26)作られることを、聖書は教えます。この陳述は、各人間の偉大な尊厳をあらわす。「人間一人ひとりは神にかたどられているので、ペルソナとしての尊厳がそなわっており、単なる物ではなく、人格なのです。人間は自分を知り、自分を所有し、自分を自由に与え、他の人びとと親しく交わることができます」...

66. 創世記の創造物語は、象徴的な表現の仕方で、人間の存在とその歴史の現実について重大な教えを含みます。その物語においてほのめかされているように、人間存在には三つの基本的な関係があります。互いに密接に繋がっている次の関係です。つまり、神と、我々の隣人と、そして、地球自体との関係です。聖書によると、表面的にだけではなく、我々の内面の内に、これらの3つの不可欠な関係は断たれてしまいました。この断裂は、罪です… 今日、罪はその破壊力を戦争や暴力と虐待のいろいろな形で発揮します。これは、最も弱いものの放棄と自然への攻撃において明らかです。

67.我々は、神ではありません。地球は我々に先だってそんざいしており、こ我々に与えられました。したがってユダヤキリスト教の思想に対して着せられた非難に答えることができましょう。「地上を司る」ように招く創世記の物語の時代から最近にいたるまで、あの聖書の言葉に基づいて人間によって自然に対する横暴の搾取が進められ、支配的にして破壊的な人間の姿が描かれました。しかしこのような聖書の読み方は正しくありません。

我々キリスト教徒が聖書を時々誤って解釈したというのは本当ですが、この頃は、我々が神のイメージでつくられ、地球に対して司る役割を委託されたからといって他の生きものの上に絶対の支配権を与えられたことが正当化されるのではありません。根位置わえわれはそうしたあやまった解釈を避けたいです。神の荷姿にかたどられて創造され、地上を司る使命をうけたことは被造界に対する絶対権をいみしないのです。

聖書のテキストは、その前後関係の文脈の中でで読み、正しく解釈したいです。ちなみに、地上と言う庭を世話するように都言われたのは、それを「耕し、ケアーする」ことへの招きです(cf Gen 2,15).「耕す」とは、耕作し、農業仕事をすることを意味し、「ケアー」するとは守り保管し、保護し、監視することなどを意味します。これは人間と自然の間柄は相互依存関係であることを含みます、各人間共同体は生存するためには土地から必要な者を取ることができますが、それと同時に土地を守り、将来の世代のためになるようにその肥沃化を保証しなければなりません。要するに「土地は主のものであり」(詩編24,1)、「その中に住む者は皆主のも度だからです (申命記10,14)。

したがって人間による絶対権の要求は一切神から拒絶されています。「とちは永久に売ってはいけない。土地は神のもの、人間はこのと非の旅人であり、お客なのであす」(レビ記 25,23)。

68.神の所有である土地に対するこの責任は知性を授けられた人間はが自然法則とこの世界の産物の間に存在している微妙な平衡を尊重しなければならないことを含みます…

69. 私たちは地上のものを責任をもって使用することができると同時に他の生き物も神のみ前に固有の価値をもっていることを認めなければなりません。

70. カインとアベルの物語において、妬みがどのようにカインに彼の兄弟に対して最終的な不正を犯させたかについて、述べられています。そして、その事件によってカインと神の間の、そして、カインと彼が追放された土地の間の関係は断絶されました…これらの諸関係が怠られるとき、正義がもはや土地に住まないとき、聖書は生命自体が危険にさらされることを我々に示します。

我々はノアの物語でこれを学びます、そこで、神は正義と平和の必要条件を満たすことに関するその一定の怠慢のため、人類を絶滅させると脅迫します。「私は、すべての人間を絶滅するつもりです。終わらせると決心しました。彼らのせいで暴力は、地球は暴力に満たされています」(創世記6、13)。

象徴性でいっぱいのこれらの昔話は、我々が今もっている信念が含まれていました。つまり、すべてのものが相互のつながりを持っているいじょゆ、我々自身の命と自然との我々の関係の真のケアは友愛と正義と他人への忠実から切り離せないということです。