性の倫理に関する選択 −カトリックの考察ー

性の倫理における選択−カトリックの考察ー


(東京の真性会館、『学び合いの会』で行われたJ. マシアの講演ノート)


   性の倫理と性教育について考えることにしましょう。
 
  
a  性教育をめぐって


   性教育が必要だという声が多いのにもかかわらず、「性教育」という言葉を耳にするだけで神経質になる教育者がいます。このように反応する教師には、どんな表現を用いれば納得していただけるでしょうか。たとえば、「健全な性教育を考えよう」といえばご了解いただけるでしょうか。このテーマについて普段、開けっ広げに話す機会はめったにありません。しかし非常に重要な課題ですので、タブー視せずに述べてみたいと思います。

b一発の花火

夏休み中には、教育のためのいろいろな研修会が行われます。そのときどきのホットな話題を取り上げられると、一時関心が高まります。しかし、それにつけても、研修会後の教育に生かされず、一発の花火に終わるのではないかという懸念がぬぐえないことがあります。そのような話題の一つが性教育です。

私は数年前にあるカトリック学校で、「生命と性」について研修会を行ってほしいと依頼を受けたことがあります。たいへん有意義な仕事だと思って一生懸命準備しました。研修会で参加者と共に研究したり話し合ったりしている時に、 教師たちが示した興味と反応に大いに関心したし、私自身も多くのこと学んだという実感でした。カトリック信徒ではない大部分の先生方が、生徒指導に関する経験を生かした研究を持ち寄り、話し合いに参加し、多くの具体的な提案を示していました。それは、健全な性教育を見直すための示唆に富んでいました。

ところが、後になって分かったことですが、数年経っても学校の方針は何も変わっていなかったのです。「あの研修会はいったい何だったのか、大して意味がなかったのではないか」と反省せざるをえなくなりました。

実は、その研修会から数年後、新幹線の車中でその学校の先生に偶然会いました。先生から話かけられて、こんな会話が始まりました。

「お久しぶりです。お元気ですか。あの時はお世話になりました」。
「いいえ、私こそ皆さんからたくさん教わりました」。

そこで、私は訪ねてみました。

「その後、お宅の学校で性教育はうまくいっていますか」。

「いや、実はむずかしいのですよ。うちの校長は性教育ということばを聞くだけで、怒るんですよ」と。

これを聞いて、私はがっかりしました。やはりあの校長も、「研修会で先生たちに、大学教授をしている司祭の話を聞かせれば、それで問題が解決する」と思ったのでしょうか。それで安心して責任を果たしたつもりになり、いわゆる「ありがたいお話」を聞かせればよいと思い込んでいたのでしょうか。借りにそうだったとすれば、その学校はミッションスクールという看板を降ろしたほうがいいと私は思いました。


c 誤解にひっかかって 

とはいえ、その校長の考えに納得できなくても、その心配が理解できないわけではありません。あの校長先生には、きっと二つのことが気がかりになっているに違いありません。ひとつは性教育という名のもとでの授業が、単に生徒の好奇心をあおるようなセックスの話に終わってしまうのではないか、という懸念です。それなら確かに健全な性教育にはならないでしょう。もう一つの心配は、カトリックの教えと合わないことが生徒にすすめられてしまうのではないか、ということです。カトリックの教えという点は誤解も少なくないので、先ほどお話しした丁寧に取り扱っておきました。

教会の教えを正しく理解し、極端な道徳主義に陥らないように気を使って説明したつもりです。しかし、現実の反応を見れば、あいかわらず、昔風の伝統的な倫理の教科書がts食ってしまっている壁を取り除くのは簡単ではないかもしれません。


性教育を行うにあたって「総合的人間学」の観点に立てば、誤解が避けられるのではないかと思います。つまり、性の諸次元を念頭におき、多くの観点―――生理学、心理学、社会学、哲学など)から人間にとっての性の意味を考える方法をめざすことです。


d 広い視野に立って性をとらえる


性教育は、学校で行われる生命と性に関する教育は、家庭でのそれとは異なった役割があります。具体的には、父親と母親がどのように互いに大切にし合っているかを見て、子供の心のあり方は大いに影響を受けるのです。性に対する基本的な理解や基本姿勢を育てること、これが学校での性教育の中心目標ですし、そのための工夫が必要でしょう。例えば、中で学ばなければならない面が少なくないでしょう。


学校で行われる生命と性に関する教育は、その基本姿勢を育てるための工夫が必要でしょう。たとえば、セックスについての話し合いの中で、生殖行為としての性、人間的な触れ合いとしての性、快楽の伴うものとしての性、売買春のように経済的な取引のために行われる性など、多くの次元、多くの側面から捉えさせ、生徒に考えさせたいのです。


2 正しい情報を伝える


いわゆる説教にとどまらず、正しい情報を家庭と学校で行われる性教育で学ぶことは大切です。生理学的な知識を教えるだけでは足りません。規範を教えるだけでも足りません。これこれをしてはいけない、これこれをすべきであるといったような形で禁止事項を教えても効果はないでしょう。それよりも、性的関係、性的営み、性的生活につい心理学的にも社会学的にも正しい情報を与えることのほうが役に立ちます。


具体的には、女性と男性のそれぞれの精神的な感じ方について考えさせる、あるいわ現代社会における性の風潮について考えさせること、などのテーマが考えられるでしょう。ちなみに、自分たちが接する性情報にはどのようなメッセージが含まれているのか、あるいは性犯罪、いわゆるセクハラやレイプについて、または性感染の問題について考えさせることなど、社会問題を批判的に考えさせることも、有意義な話し合いへの手がかりとなるでしょう。


つまらないこと、こまかすぎることに思われるかもしれませんが、避妊について扱うときも、正しい情報を得させることが大切です。ある青年が避妊を怠り、あるいは避妊に失敗して、中絶の問題が起きたとしましょう。妊娠中絶が実行されたとすれば、その責任の一部は、性教育が不足したところにもあります。とにかく、このような具体的なことまで、恐れずに取り扱う必要があります。カトリック学校だからと言って、このことをタブー視すべきではないと思います。性教育を、教育全体の中にきちんとした位置づけを持つ、教育の本質的部分として扱うべきです。


3 人間としての根本的価値観を育てる


さらに、情報だけではなく、ものの考え方を育てることが学校教育において重要です。自分にとって性とはどういう意味をもつのか、性交を求めるとき相手をどのように見ているのか、どういった動機をもつのか、相手から快感を得たいだけなのか、それとも相手に快感をあ与えて喜ばせたいのか、二人の人間が互いに安心し合える関係の中でプライバシーを明け渡しているのか、アイデンティティを解体し互いを与え合える絆を結ぶとは、いったいどういった意味を持つのか―――このような質問を出して生徒に考えさせたいものです。


f教師自身の当惑


性的な営みに関して、後ろめたさを感じるとすれば、それは健全なものなのか、それとも狭い教育の結果もたらされた不健全な後ろめたさなのかを考える必要があります。教会の中では、時に、性に関する偏ったものの考え方の影響がみられることがあります。教会は確かに伝統的なキリスト教性道徳に含まれる偏りを是正しようと努力していますが、それでも、乗り越えられない問題点を多く抱えています。


教会の司牧者など、指導者の間で性の倫理についての価値基準が異なっていることがあるのも、困難の原因になります。教会やカトリック学校などの司牧現場で現に起こっていることですが、司牧者個人の価値基準がそれぞれ異なっていて一致せず、信徒はどこに指標を見だして進めばよいのかわからず、困っているのです。司祭修道女の中には、避妊は後ろめたいものであると考えてしまう人が少なくないのです。


知人の一人が私に手紙を書き送ってくれたことがあります。その中で、信徒が感じるそのような困惑の原因について、こう書いていました。


「信徒としてとしての自分を考えればよくわかります。なぜなら、私個人の倫理観がどこで形成されたかというと、クリスチャンの親からの教育、高校時代のシスター方の教育、結婚講座をはじめとする教区教会での司祭の考え方、共に職場で働くシスター方との話し合いなどです」と言っていました。


そして、次のように言い続けた。


「教会関係の場でいまだに強調されるのは、〈十代の娘には純潔教育〉、〈結婚生活の場では、荻野式とビリングスメソッドを中心とする産児制限のみを認めた性のあり方〉である。そして、産児制限のための有効で信頼のおける人為的手段を用いることは、絶対にだめだというものです。教会のこの風潮はよくないが、このことについて直接意見を求める信徒は少なく、なんとなく後ろめたいという気持ちを助長するものになています。もっと開かれた態度をもっている信徒の教師自身、従来の教育によって〈形成された倫理観〉と〈現実の生活〉との隔たりから目をそらさずに生きることは簡単ではないでしょう」。


この信徒から受けた手紙を読んで、私はつくづく考えさせられました。偏った教え方をしてしまった私たち司祭や修道者、そしてカトリック教育者には、反省すべきところが多いのではないか、と。


生きる道を選ぶ  −むすびに変えて−


以上、性教育について最近考えていることを、思い切って述べてみました。最後に「いのちへの道を選ぶ」という全体テーマとの結びつきに特に留意して、結びたいと思います。
すでに何度か繰り返したとおり、「選択」は人間を特徴づける重要な要素です。性の営みにおいても、健全な性のあり方を選ぶかどうか大切です。性の営みが生きる道を選ぶ選択となるために、次の三種類の選択に注意するとよいでしょう。


1 生殖に関する選択


夫婦は何人の子を設けるか、誕生と誕生のあいだにどのくらい間隔をおくか等を自分たちが責任を持って判断し、決めるべきです。二つの極端な選び方があり得るのです。できるだけ多くの子を産むことも、絶対に一人も産まないことも、選択肢としてはありうるが、両者とも無責任と言えます。責任をもって親になるかどうかという選択をすることが人間に迫られています。


1. 快楽に関する選択


 
 人間の性の営みは生殖のためだけではなく、それに伴なう快楽を味わい、相手とともに遊ぶ面もあり、さまざまな形でそれを生かすことができます。しかし、どの方向に持っていくかが問題となります。たとえば、互いの絆を強めることもできれば、相手を自分の快楽のための道具にしてしまうこともできます。人間関係においてどのよに快楽を位置づけるかという選択とも取り組まなければならないのです。


2. 人格的な関係に関する選択


人間の性の営みは生殖や快楽に終わらないで、相手との人格的な出会いを作り、その絆を強めるものでもあります。しかし、その営み方によって愛する者たちが互いに高めあうこともできれば、互いに破壊し合うこともできるのです。どの方向にその関係をもっていくかは、また人間の選択です。


このように最初から提起した「選択の問題」を性の営み方に当てはめることができるのではないかと思います。


このことを分かりやすく説明するために、私は講義では「性における三つの“P”」というスローガンを使うことにしています。


それはprocreation (人間的な生殖のあり方、すなわち新しいいのちの創造のためになる神との協力)、 pleasure (性の営みに伴なう快楽)、personal relationship (性の営みによって結ばれる人格的な絆)のおれぞれの頭文字です。この三つを統合することこそ、いのちへの道を選択する健全な性のあり方につながります。