Humor y Evangelio en el Año de la Fe (10): No predicar como un loro 教会は九官鳥ではない。

広島でのヨハネ・パウロ2世野スピーチは、印象深かった。ローマ字を読んで暗記下日本語の言葉には、達庄野鉛はあったが、やはり一つ一つの単語の意味を理解しながら話していたことは明らかである。その後しばらくして東京野町の片隅で、5歳にもならないような子供がテレビで見たらしく、教皇野口ぶりを真似して、「戦争は師です」と、盛んに教皇ごっこをしていた。

公会議でのあくび

ところで、話はさかのぼるが、長いラテン語野スピーチを聞かされて、司教たちが疲れるのも無理はない。休憩がてらイタリア。ワインをいっぱい飲んだり、うたたねをしたくなるのも当然のことである。議論が行き詰まるときも、イライラする。数人の司教たちは直接、ヨハネ23世のところへ文句を言いに行ったs。「このままでは退屈で無駄が多い。もっとスピードをあげるようにしてはどうですか」。

ヨハネ23世も本音ではスピードをあげたいと思っていた。しかし、スローテンポで会議が進む間、全世界から来た司教たちが互いに会ったり勉強したりする過程の中で、考え方が代わって行くし、教皇庁やローマの古いタイプの神学〜の影響も少なくなる。司教たちにヨハネ23世は言った。 {あなたがたは長い時間、聖ペトロですわって聞いているんですね。私もモニター・テレビの前に座って、ずっと聞いていますよ。あくびは私もするけれども、うたたねしながらでも、あなた方も私も、結構、学ぶことは多いのじゃないでしょうか}。

神学は渡り鳥

公会議で『現代世界憲章』野33番が討議された時、意見は二つに分かれていた。のちに廃案となった文章では、「教会は神の啓示にもとづいて、現代野諸問題に回答を与える」と提案された。これに続いて次のようなやりとりが交わされた。「教会は九官鳥ではない。昔からの回答をオーム返しに繰り返すのでは、現代の問題には取り組めない」。

「聖書の中にある神の啓示を、無視してよいとでも言うのか」

「いや、それは大二にするけれども、啓示というものをあたかすべての問題の解答を与えるものでもあるかのようにとらえては困る。教会が聖書から汲み取るのは、出来合いの回答ではなんく、それをめざすための光と力である」。

最終的に公会議で可決された文書は、「教会は神の言葉を遺産として保ち、そこから信仰と生き方に関する原則を汲み取る」。と述べてから注意深く次のように付け加えている。

「各々の問題に関して、常に回答をもちあわせているわけではないが、啓示の光をすべての人々の経験と合わせ、人類が近年踏み入った行路うを照らそうと望む」

やはり神学は、九官鳥よりも渡り鳥にたとえられようか。