カトリック教会社会教説『網要』の刊行に当たって

 カトリック教会社会教説―人間学の視点からー

 Compendium of the Social Doctrine of the Catholic Church

 (J.マシア、2009年7月4日、上智大学での講演の記録)


 『教会の社会教説綱要』の邦訳が刊行されました(カトリック中央協議会、2009年)。社会問題に関する教会公文書での発言をまとめたこの『要約』は、現代社会に響く福音のメッセージを広めるにあたってこれから大いに参照されるでしょう。

  この出版を記念して連続シンポジウムを行うことになったわけですが、一回目は基礎論について扱い、二回目と三回目は各論(政治・経済・労働・国際社会など)について論ずることになりました。そこで今日は、基礎論を扱い、「カトリック社会教説と人間性の探求」というテーマを中心に『綱要』の第一部をご紹介したく思います。私に与えられた課題は、先に挙げた本の3章・4章についてコメントすることです。その第3章では「人間と人権」について、第4章は「教会の社会教説の諸原理」がテーマです。

  言うまでもなく、短い時間の中で、その豊富な内容を網羅することはできませんので、まずは要点を指摘し、その後で、『綱要』を批判的に受け止める手がかりを提言してみたいと思います。

  では、まずここで皆さんに1.2.3に分けて三つの質問をしたいと思います。ご一緒にお考えください。教会公文書で社会問題について発言するとき、

1)誰を相手にして語るのでしょうか。

2)として、どの立場から語るのでしょうか。

3)もっとも強調されているのは何か、どこに重点がおかれているのでしょうか。

1) 誰を相手にしているのでしょうか。
  当然、教会は、教会内部に向かって、信徒に呼びか
け、信仰の持ち方と社会との関わり方が相反したものにならないように気をつかって語っていますが、ヨハネ23世(在位、1958年―1963年)以降は、教会の社会教説を「善意のあるすべての人々」に当てて発言されるようになりました。
つまり、教会は、社会に貢献し、人類の未来に関して責任を感じるすべての人に向かって呼びかけ、とくに社会作りに貢献する教育・医療・福祉などのような諸制度に向かって社会建設への努力を訴えているのです。

2) どの立場からっ語るのか。
  教会の公文書は、二つの立場から発言しています。まず聖書に基づいた信仰の立場で、聖書に基づいた人間観・倫理観を前提にして社会を見るとともに、その社会が抱える問題に関わろうとしています。また、信仰のある・なしにかかわらず、一般の人に広く通じるような人間観・倫理観に訴える判断の仕方を勧めようとしています。

3) どこに重点がおかれちるのか。
  この三番目の質問は、手短にまとめるのが一番むずかしいものです。ここは、あえて四つの要点にしぼろうと思います。以下のAからDまでの四点にカトリック教会の社会教説の諸原則を要約できるのではないかと思います。

A) 人間の尊厳の尊重

B) 共通善の建設b

C) 社会正義の促進

D)慈しみと和解による葛藤対立の解決

  この四点について『綱要』の中から、典型的な引用をしておきましょう。(ここで省略。『綱要』野索引参照)。

  さて、ここまで『綱要』における基本的な立場と、重要な点を手短にご紹介しました。ここからは『綱要』の批判的な受け止め方のための示唆を提供してみたいと思います。

  そもそも『綱要』といった性格のものには、長所と短所がります。

  長所としては、次の点があげられます:体系的に、手短に、主題別に参考にしやすい形での要約ですので、確かに便利なのです。社会教説を参照する上では大変役に立ち、使いやすいのです。

  短所としては次の点があげられます。
異なった重みと、異なった時代文脈が、抜粋の形で同列に並べられているため、皆同じ程度の重要性を持つかのように受け止められることにもなりかねないし、同じ主張でも、その時代や社会の文脈を念頭において解釈しなければ、一面的で偏った捕らえ方を産む可能性があります。

  そこで、『綱要』の批判的な受け止め方のための示唆として、次の三つの時代背景を区別すること、またそれぞれの文書を参考にするにあたっては『綱要』のそれぞれの文書が書かれた年代の教会と社会との関係性を背景として念頭に置くようにということを提唱したいと思います。

  『綱要』に掲載されている社会教説関係の公文書は、時代背景によって三つの時代区分することができるのではないかと思います。


1)1891・1961レオ13世からピオ12世までの間

2)1961−1971(1975)。ヨハネ23世、 第バチカン公会議パウロ6世のOctogesima adveniens(1971) と Evangelii nuntiandi (1975) までの間。

3)1978−2009ヨハネパウロ2世の時代と現教皇ベネディクト十六世までの間。

  このわけ方を踏まえた上で、これからの課題を指摘したいと思います。

  今後は61年から71年までの新しいパラダイムを再確認し、現代にそれを生かすことができればと思うのですが、そのためには:

  聖書の読み方の新しいパラダイムを再確認する必要があります。また人間学と神学の関係に関する新しいパラダイムを再確認する必要があります。

  またここで述べた三つの時代ではいつでもこのように、前述した基本的な主張(すなわち、人間の尊厳と共通善,社会正義と人類愛)が繰り返されています。しかし、これは例えて言うなら、同じメロディーを歌っても楽器や伴奏が違うようなものだと考えるのがよいでしょう。

  レオ13世は、19世紀の終わりに、教会の眼を社会問題へ向けさせよとしました。

  ヨハネ23世は、70年後、教会に眼鏡を変えさせました。この時代の教会は、レオ13世の時と同じように、社会問題に眼を向けていますが、それを見る「めがね」・「ものの見方」を買え、新しいパラダイムで考えるようになったのです。1961年の回勅『Mater et Magistra』と1963の会勅『Pacem in terris地上の平和』において社会教説の大きなパラダイムの変化が見られます。その新しいパラダイムの特徴として次の点があげられます。
まず、現代聖書学と現代人間科学が取り入れられていることを指摘したく思います。

  また次に、聖書と社会分析、聖書と人間の生活経験、聖書と人間科学の間のいわば往復運動を繰り返しながら社会を考えるという方法論が確立されたことも注目しなければなりません。第二バチカン公会議の『現代世界憲章』はその方法論を生かしました。その後には、解放の神学がますますそれを発展させたのです。その方法論を用いた教会公文書として70年代で注目されるのはパウロ6世のOctogesima adveniens(1971)とEvangelii nuntiandi(1975)です。

  ところが、後にヨハネパウロ2世の長い在位の間には、なし崩し的にその方法論から教会文書が離れるようになってしまいました。(言葉の上では公会議の刷新を促進したいと言っていますが、公会議で乗り越えられていたはずの前時代のパラダイムへの後戻りの傾向が、教理省などの諸文書に見られます。最近出されている公文書、たとえば2008年に教理省が著した『人間の尊厳』にはその傾向が顕著です。このような状況に、現代のカトリック倫理神学が行きづまっている理由の一つがあると思います。

  今の私たちには『現代世界憲章』の新しいパラダイムに立ち返ることは緊急課題であると思われてなりません。そのために特に、次の二つの点を指摘したいと思います。

   1)聖書と社会分析について、また2)神学と人間学について、の二点です。

  1)今述べた1について考えてみましょう。聖書が書かれた時代の政治・経済・文化・社会を分析することによって聖書の読み方が変わってくるでしょう。そして現代社会を分析し、それに照らして聖書を見直すと同時に、他方では聖書に照らして現代社会を見ようとするようになるでしょう。この「往復運動の方法論」を生かし、カトリック意教会社会教説の促進と社会倫理の刷新を目指したいと思います。

  それから、2)としてあげたもう一つの点、人間学と神学の相互関係について述べたいと思います。
古いパラダイムの神学から見れば、人間学はただ神学の前書きか後書きに過ぎないかのように見えてしまいます。言い換えれば、人間学は神学を学ぶための下準備か、もしくは神学を応用するためのいわゆる司牧敵・実践的な手伝いに過ぎないかのように見えてしまうようです。

  しかし、新しいパラダイムにおいては、人間学は神学の前や後ではなく、神学の中の重要な位置を占め,重要な要素としてはたらきます。神学と人間学は互いに影響し合い、互いに対決し合い、変革させられ合って、発展していきます。

  そういった神学と人間学の共同作業、および聖書と社会分析の共同作業からこそ、教会の社会教説に新しい時代がやってくるのだろうと、期待されています。

  このたび、上智大学で、人間学と神学が同じ学部に共存することになったのは(30年送れていると言えるかもしれませんが)大いに歓迎されるべきことであり、現役だったころには人間学研究室と神学部の両方の仕事に携わってきた私としては、その合併を祝いつつ、またその正解に大いに期待したいと思っております。