神様の「気」(プネウマ)、聖なる「命の息吹」を信じる

六甲教会、使徒信条研究会の箇条書き 08-12-04
使徒信条の第三部は「聖霊を信じる」と言うが、「聖霊」という言葉は誤解されやすい。わたしたちは「父と子と聖霊のみ名によって」と祈るが、この「と」(英語でand)は、神様は三者であるかのように誤解されやすい。本講座の最初から強調したように、「父」とは、いのちの源である神のこと、「子」とは、わたしたちの間に現れ、神の顔を示してくださったイエス・キリストのこと、聖霊はいのちの源である神の息吹、イエス自身の息吹、私たちのうちに宿り、すべてのものを生かす神の息吹のことである。
使徒信条の第三部の要点を思い出そう。「聖霊を信じ、 聖なる普遍の教会、 聖徒の交わり、 罪のゆるし 、からだの復活、 永遠のいのちを信じる」と。
聖霊。父親とも母親とも呼ばれうる神の息吹、イエス・キリスト自身の息吹。
教会。「教会を信じる」のでもなければ、「教会が言っていることを信じる」と言うのでもない。「教会の中にいて」、「教会の中に身をおいて」(ラテン語でin Ecclesia)神を信じるという意味である。
聖なる教会。聖と呼ばれるのは聖なる神の息吹によって生かされ、集められている人々の集いだからである。聖人でないわたしたちは神によって聖とされる。
普遍。普遍とは「カトリック」の意味である。すべての分け隔てや差別や違いを超えて、人類の一致を目指し、その一致の徴になるのは教会の使命である。
教会は「聖徒の交わり」や「聖霊の交わり」や「諸信徒の和合」と呼ばれるのは「聖なる神の息吹によって一つにされている人々のつどい」であり、その繋がりこそ教会を作るものだからである。神によって「尊いものとされた供え物を奉げ、キリストの祭壇を囲んで集う教会は、キリストの霊(息吹)によって集められた共同体である。ただ、聖霊の働きは決して教会内だけではない。教会野中で私たちが祝うのはスでに教会の外で起こっている出来事すなわち聖霊の働き。
罪のゆるし。神との繋がりが断ち切られてしまっても、神に立ち返る道と機会をいつも与えられている。そして神から受け入れられ、ゆるしていただいている者は互いにゆるしあいたい。
「からだの復活、永遠の命を信じる」。「からだの復活」や「肉親の蘇り」も誤解されないように注意したい。復活とはこの世の生活に再び帰るような「墓からの蘇り」ではなく、二度と死ぬことがない真の命すなわち永遠の命に入ることであり、神様の命のうちに永遠に生きることである。キリスト教では死後の世界を描写しない。わたしたちは、死んでも神から見捨てられることがあり得ないという信仰をもってその死後の変容や在り方を神様にゆだねる。
「父と子と聖霊」と祈るが、私たちはむしろその逆の順序で神に至る。すなわち、聖霊によってキリストを通して父なる神へと導かれる。使徒たちにとってもそうであった。ヨハネ16、12−15のイエスの言葉に、「聖霊は弟子たちに、イエスが誰であるかを示し、天の父のことを現してくださるであろう」とある。
共同体の現実の中でも、個人の心の中でも、聖霊はイエスと父を現してくださる。大自然を通して、共同体と歴史を通して、そして私たちの心の中に聞こえる神の声を通して、聖霊は父なる神を私たちに現してくださるのである。
信仰告白の中でわたしたちが言う「信じる」という言葉は、聖霊によって言えるものである。「聖霊を信じ、教会の中で身をおいて神を信じ、罪の赦しと、からだの復活と永遠の命を信じる」という表現があるが、これは正確には、聖霊を信じ、教会という場において神を信じ、そして罪のゆるしと永遠の命に向かって信じるということである。
罪のゆるしを理解する出発点も聖霊である。聖霊は新しい心を私たちのうちに創造するからである。そしてからだの復活を信じるとは、父なる神が私たちに対して、イエスになさったのと同じようになさってくださるであろうと信じることである。私たち一人一人の生涯、人類の歴史、また宇宙全体も、父なる神によって新しくされるだろうと信じることである。
これに関してヨハネの中での最も大切な言葉を引用しておこう。
「私は父のうちにおり、あなたたちが私の内にいて、私もまた、あなたたちの内にいるのだ」(ヨハネ14、20)。
「父よ、あなたが私の内に、わたしがあなたの内にいるように、彼らも私たちの内におられるようにしてください」(ヨハネ17、21)。