最後の審判には、イエスこそ弁護人

    六甲教会、使徒信条研修箇条書き、 08-11-20
    六甲教会、説教箇条書き、王であるキリスト、08-11-20

          
 使徒信条で言われている「生者と死者を裁くために来られる」ということばを誤解せずに、神の裁きこそ「慈悲と和解の場」であることを理解したい。イエス・キリストは判事ではなく、弁護人である。被害者側の弁護人として加害者に回心へと呼びかけ、加害者の弁護人として罪を認め、ゆるしを願う加害者にゆるしを信じるように希望を与える。

 種々の宗教では「最期の審判による善・悪の報い」の話しがある。ユダヤ教にもそうであった。それを背景に、マタイ25、31−46には「慈悲の実践によってすべての人が裁かれる」場面が描かれている。使徒信条では、すべてのものを神に立ち帰らせる「イエス・キリストの再臨」への信仰が表わされた。

 ただ、「イエスは裁きに現れるから怖い」のではなく、「裁判の場」に来られるのは兄貴イエス」なので安心したい。
ミケランジェロが描いた最期の審判は美術的にすばらしくてもイエスの姿(怒る審判者)を間違えて描いた。ダンテの「地獄」も、中世時代の「怒りの日」の歌も信仰を歪曲した。

 ローマ書8、39を参照。ヨハネ5、24:「私を使わした方を信じるものは、永遠の命を得、裁かれることなく、死から命へと移っている」。3,17:「神が御子を世に使わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。ヨハネの第一の手紙3、2-3も参照:「御子が現れるとき、御子に似たものとなる...御子をありのままに見る...其れによって清められる」。

 別な意味で「裁きのために来た」と言う箇所が、「光りによる裁き」である:ヨハネ9章(盲人がいやされたことを喜ぶことのできなかった指導者たちが裁かれる。「私がこの世に来たのは、識別するためであり、こうして、見えない人は見えるようになり、見える人は見えないようになる」(ヨハネ9、39)。
鏡のたとえ話。判事が座るところに判事ではなく鏡がおいてあった。被告人は鏡をみて自分のみにくいところが映っていることに気づき、罪を認め、自分自身で自分を裁く。神の前に立ってはじめて、あるがままの自分をみて人は罪を告白する。弁護側に立っているイエスから励まされて「ゆるしがあることを信じる」ようにと、希望を与えられる。

 詩篇51参照。神は法廷に判事としてではなく、被害者側の代表者として来られ、加害者を回心へと呼びかけ、ゆるしを提供する。神が求めるのは、罪を認め、ゆるしを信じることである。ゆるしは「聖霊による新しい創造」であり、新しい出発である。
「犯罪の制裁には報復のつぐない」では社会が癒されない。聖書は「報復をもとめる正義感」よりも、「人間関係を修復する神の正義」を説く。「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで正義は天から注がれる」(詩篇85,11)。イエスは、「私のくびきは担いやすく、私の荷は軽い」(マタイ11,28-30)と述べた。

 「毒麦と良い麦」のたとえ話を参照。(マタイ13、24−30)。私たちのうちに両者(善玉も悪玉も)が秘められており、善玉悪玉にわけて人を裁かないように、とイエスは教えた。私たちは被害者でも加害者でもある。誰かが殺されれば私自身の一部が殺され、私も被害者と共に被害者になる。犯罪者に似ているところ(たとえば小さな憎み合いや怒り)を持っている私には加害者的な面もある。私たちは皆、被害者。私たちは皆、加害者。自分のうちに良い麦と毒麦が一緒になっていることを認めて初めて、暴力の根が根こそぎにされ得る。加害者にもまた自分が被害者でもあることに気づかせたい。他人を殺した者が自分自身の中の善さを殺したことを認め、心を入れ替えるように、と願い、犯罪者を死刑にせずに、生きることによって償い、回心する機会を与えたい。

 報復から修復へ刑務所の苦痛によって罪がつぐなわれると言われるが、その背景にあるのは、「報復を要求する正義」の考えであるが、キリストの平和は報復を欲求するのではなく、人間関係の修復を求め、和解と癒しをもたらすものなのである。