教皇フランシスコ『愛の喜び』8章試訳307−312

司牧の場で適応される慈悲の道理

307. 誤解がないようにことわっておきたいのだが、教会が神の偉大な計画である結婚に関する理想を提言しつづけるべきである。「若い信者たちは、婚姻の秘跡が彼らの愛の人生計画に与える豊かさを前にして、ためらうことがないように励まさなければならない。彼らがキリストの恵みによって支えられること、また十全な仕方で教会生活に参加し得るということによって支えられることを、彼らは革新すべきである」

 福音〔の教え〕を提示するにあたって、控えめすぎる中途半端な態度や相対主義に陥ってはならない。遠慮してこの理想を示すことをひかえれば、福音への忠実がたりないことになり、また若い人に対して教会の愛が足りないということになる。

例外的な状況に直面したとき理解を示すからといって理想の光をぼやかすわけにはいかない。またイエスが人間に示した高い目標をめざさなくてもよいということでもない。

現代においては失敗に対するケーアよりも、失敗を予防するほうが課題であり、結婚の絆を確立し、その断絶を予防することが重要である。

308. それと同時に、情状配慮(心理的、歴史的、生物学的)を考慮に入れる必要があるが、「福音的な理想を低くすることなく、徐々に現れる成長段階をみて忍耐と慈しみをもって人の歩みに寄り添う必要がある。わたしたちにとってできる限りのことをするように勧める主の慈しみの働きのために余地をのこすべきである。」

 混乱を避けたいと思ってもっと厳しいアプローチを求めている司牧者がいることがわかるけれども、私は正直に言ってイエスが教会に求めているのはそのアプローチではないと確信している。聖霊は人間の弱さの中で善の種を蒔く。

教会がその種を育てるように気遣うことをイエスはのぞんでおられる。親心のある教会は、客観的な教えをはっきりと述べながらも、自分に可能な限りの善を実現しようとする。たとえそれをする過程の中で道のどろに塗れる心配があるにもかかわらず教会はそうするのである。

 教会の司牧者たちは信徒に福音の理想と教会の教えを提供するに当たって同時に彼らを慈しみの目であつかうべきであり、早まった判断や厳しすぎる裁きなどをさけるべきである(cf. Mt 7:1; Lk 6:37) 。 イエスは、「人間の悲惨に触れ、苦しむ他者の身体に触れるよう望んでおられる。人間の悲劇の中心からは離れた避難所を個人や共同体に求めることのないよう、そして、実際に他者と接して、いたわりの力を知るよう期待しています。もちろん、それを実行すれば、わたしたちの生活は見事にも面倒なことにまきこまれるだろうが。。。」 
 
309. これらの反省はいつくしみの聖年のあいだ行われているということはみ摂理だ。この慈しみを多くの家族がおかれている状況の上に注がれなければならない。「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命がある。いつくしみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。キリストの花嫁なる教会は、だれも排除することなく、例外なくすべての人のもとに向かう神の御子の態度を自分のものとする」

教会はよく承知しているが、イエス自身は99匹の羊だけではなく、100匹の牧者である。牧者はすべての羊を愛している。このことに気がついたら次のことが可能になるであろう。つまり、「信じる人にも、信仰から離れた人にも、すべての人にすでに私たちの間にある神の国のしるしとして、いつくしみの芳しい香りがとどくように」

310. 「イエスは、いつくしみが御父のわざであるだけでなく、御父の真の子を見分けるための基準にもあると断言している」 これはローマン主義的な提言でも、神の愛に対する消極的な応答でもない。神自身は人を大切にしているのでる。「教会の生命を支える柱は、いつくしみである。教会の司牧の行為は、教会が世に向けて語るどんなメッセージにもどんなあかしにも、いつくしみが欠けてはならない」。

〔ただ反省して認めなければならないだろうが〕わたしたちはしばしば恵みの分配者としてではなく、その管理者として振舞ってしまうことがある。けれども教会は税関ではない。教会は父の家である。そこには、人生における困難を抱えた一人ひとりのための場所があるはずである」。 
 
311. 倫理神学の教え方において前述の考察が取り入れられなければならない。道徳に関する教会の教えのすべてを伝えることに関心を持たなければならないことはたしかであるが、特別な気遣いをもって福音の一番中心的な価値観を強調し、それを実現するように励ますことはいつも重要である。特に愛徳は倫理の中核である。 

愛徳は神の無償の愛に対する応答である。時にはわたしたちの司牧活動には神の無条件の愛のために余地を残さないのではないかと思う。慈しみを示すためには、あまりにも多くの条件を付けてしまえば、慈しみの意味が失われてしまう。これは福音の味をなくさせることになってしまい、言ってみれば、葡萄酒に水をまぜすぎることにも例えられよう。たしかに、慈しみは正義と真理を排斥しない。しかしなによりも言わなければならないが、慈しみこそ神の真理と正義の最高の成就であると言わなければならない。そのために、慈しみにおいて現される神の全能を疑う神学的な立場はふさわしくないと判断せねばならぬ。

312. 前述したような〔良心〕のとらえ方と〔神の慈悲の〕雰囲気を背景に一番微妙な課題と取り組もうとすれば、もはや机上の道徳観に頼ることができないだろう。〔教会法や教会の行政という枠ではなく〕、司牧上の配慮の識別という文脈の中で扱わなければならない問題がある。このような司牧上の識別は慈しみのある愛にみちている。

この愛はいつも理解し、ゆるし、同伴し、希望を持たせ、そして人を排除せずに教会の中へ迎え入れる。このような基本姿勢は教会において中心的であり、我々をみちびくべきであり、 「自分とは全く異なる周縁での生活を送るすべての人に心を開く」ようにさせるべきである”.

複雑な状況におかれている信者をはげましたい。司牧者と話すように。あるいは他の信者にそれをうちあけるように。それはかならずしも自分の考えを確認させることにはならないかもしれないが、おそらく自分がおかれている状況をよく理解するためにも、自分の成長への道を発見するために助けになるに違いない。司牧者もはげましたい。落ち着いて包容力をもって人の悩みに耳をかたむけるようにし、人の視点に立ってみて誠実に彼らを理解しようとするように。そうすることによって人の生き方を助けることができ、教会の中における自分の位置を見出すように人を助けることができるであろう。