古いものと新しいもの

古いものと新しいもの
六甲教会説教箇条書き。08-07-27 A年、年間17主日

今日の福音はマタイ13章の締めくくりのところです。マタイはこの章の中でイエスが語ったたとえ話をまとめておりますが、締めくくりのところで次のように言っています。「天の国のことを学んだ者なら、聖書の宝箱から新しいものと古いものを合わせて取り出す」。
古いものと新しいものを合わせるようにイエスは弟子たちに勧めました。その勧めの言葉を持ってマタイは13章の幕を結びます。
マタイ福音書が書かれた教会には古いタイプの信者もいれば、新しいタイプの人もいました。両者のあいだにせめぎあいが生じることもありました。昔からの伝統にこだわりすぎる人もいれば、伝統に縛られたくない人もいました。形式的なことにこだわりすぎる者もいれば、伝統を大切にしない者もいました。マタイは両者に対して気を使って、イエスの教えを正しく理解するように注意します。
マタイに言わせれば、イエスは古い形式にこだわらなければ、新しがりやでもないのです。イエスこそ古いものと新しいものをその宝箱からとりだす一家の主人に例えられます。
ただ、手元にある『聖書と典礼』の訳では通じにくいでしょうから、言葉を置き換えてみましょう。「天の国のことを学んだ学者」というのは「聖書の教えになじんでいる司牧者」(イエス自信も弟子たちにそのような知恵と司牧的な感覚をもってもらいたかったでしょう...)。
「一家の主人」というのは「お袋の味を出すためには、古い残り物と新しいものをまぜて美味しい料理を作る者」とおきかえてもよいでしょう。
そのような知恵が足りないとき、つまらないことで教会の中で無駄な議論をすることがあります。
マタイの教会にもその問題がありましたし、現代も似たようなことがおこります。たとえば、ある教会ではつまらない議論がありました。ある信者は昔のような古い聖歌集にあこがれていました。他の信者は現代の音楽がなければミサに出たくないと言っていました。もう一例。ある教会ではご聖体をいただくとき聖体奉仕者からいただかないで司祭からでなければならないと主張する信者もいました。その逆の極端もいました。たとえば、自分で祭壇から直接にとっていただいたほうが良いと主張していた信者もいました。しかし、両者とも両極端で、両者ともつまらない議論をしながら大切なことを忘れていました。
大切なことと言うと、たとえば、ご聖体をいただくときの有意義な動作と言葉です。皆さん気がついたでしょう。「キリストの体」と言われて「アーメン」と答えます。その時、三つの大切のことが行われます。
1)挨拶。ご聖体を配るものといただくものの目が合って挨拶します。
2)信仰宣言。アーメンというのは「その通りです、そのように私は信じている」という意味です。
3」祈り。アーメンというのはもう一つの意味があります。つまり、「そうなりますように」、「キリストをいただく私たちがキリストになりますように」。
この大切なことに気づくほうがさきほど引き合いに出したつまらない議論よりもはるかに重要です。口でいただくか手でいただくか問題ではありません。司祭からいただくかその他の奉仕者からいただくか問題ではありません。もっと大切なところに目を向けましょうというのはイエスの教えをよく身についたマタイのような司牧者のやり方でした。
マタイはまさに聖書の宝箱から古いものと新しいものを取り出していました。現代、保守的な信者と急進的な信者の間につまらないもめごとがあっちこっちの教会でみられますが、私たちはイエス様から古いものと他らしいものあわせて「お袋の味」のような教会つくりにつとめたいでしょう。