「聖霊と処女と名付け親」か、それとも「どの子どもも聖霊によって生まれるのか?

 今日は待降節の第4主日です。

 今日のミサの中心ポイントは「この子をイエスと名付けなさい、エンマヌエルと名づけなさい」というテーマです。

 クリスマスの季節において、わたしたちは祝いのカードを見て、マリア、ヨセフ、幼子イエス、聖家族の姿になじみが出ます。
でも、聖家族と呼ばれるこの家族から学ぶ命の誕生、母性、父性、名づけの深い意味をわたしたちは十分に把握しているのでしょうか。
当りまのようにわたしたちは教会用語を使って「マリアは処女、ヨセフは名付け親、イエス聖霊によって生まれる」という節を繰り返すかもしれないが、処女性とは、名付け親とは、聖霊とは…と聞かれたら何を答えましょうか。

 実は、

 1)どの親もある意味で、名付け親でもある、里親のような面をもっていると言えます。

 2)そして、どの親も親になって初めてその処女性は深い意味を帯びてきます。

 3)さらに、生まれてくるどの子どもも聖霊によって生まれると言えます。

 4)なお、first name を与えられてその名前で呼ばれるどの人間もかけがえのない尊厳を持っており、人間であるとか何々人であるとか、何々の特徴を持っているとか言うより先に、誰々という個人だと言わなければならない。どの人間も排除され、差別されるべきではない。

 ヨハネ・パウロ2世が述べたように「イエス様の誕生、ご降誕、クリスマスの祝いにおいてどんな人間の誕生ももっている深い意味が現わされています。(『命の福音』2)。

 では、その意味を深めるために福音書の朗読にはマタイとルカを合わせましょう。マタイの1、20から、ヨセフへのお告げ、ルカ1、31からマリアへのお告げを聞きましょう。

 ルカによる福音書、1、31では、お告げの物語が述べられています。マリアは目が覚めていたでしょうか、うたたねしながら夢を見たのでしょうか。真実を見つめさせる夢です。近いうちに結婚するようになるでしょう。それに対して望みもあり、不安もあるかもしれません。マリアに安心させるみ使いが現われます。み使いは言います。「マリアよ、恐れることはない。あなたはいのちをめぐまれる。あなたは身ごもって、男の子を生む。その子をイエスと名づけなさい」

マタイによる福音書1、20−21では、ジョセフへのお告げが語られています。夢の中ですが、彼に目覚めさせる夢です。ヨセフは近いうちにマリアを結婚で迎えるようになる予定ですが、それに対して望みも不安もあります。み使いは彼に安心させます。「マリアを迎え入れることを恐れるな。マリアは男の子を産む。マリアが身ごもる子は神の聖なる息吹によって祝福されます。あなたはその子にイエス(人を解放する方)と名付けなさい」。

 このようにルカとマタイを合わせて読むと気が付くのですが、マリア二もヨセフにも子供に名前を付ける役割と使命が与えられています。そしてマリアにもヨセフにも同じ二つのことが言われます。一つはあなたは方子どもを授かり、恵まれろ。もう一つは生まれる子供は聖霊によって生まれる。

 イエスの名前を選んだのは神様です。そのためにみ使いを通して伝えられる。それから、名前を付けるのは父親と母親の役割と使命だということです。(当時父親が名前を付けるのは普通でした)。父親も母親も新しい命・児玉を恵まれます名前を付けるでしょう。名前を名付けるというのは、つまりその命を受け入れ、育てることを約束するということです。どの父親と母親も、ある意味で、名づけ親・里親だと言えましょうか。

 そして、どの新しい命も聖霊の息吹を注がれて生まれます。どの子どもも聖霊によってお母さんがみごもって聖霊によって生まれると言えます。その意味でどの親も神とともに協働創造者であると言えます。生まれてくる子供は親から生まれると同時に聖霊によって生まれるのです。その子供に親が名前を付けるすなわちその存在を受け入れ、これからもそのように育て続けることを約束します(その子に、社会に、神に約束します)

 それはどんな状況の中で生まれたにしても、どんな事情で親が名づけ受け入れたにしてもそのように言えるのですよ。(たとえば、正式な夫婦、そうでない同棲カップル、LGBTの者が受け入れた場合、生殖補助医療の助けによって対外受精や代理出産などで生まれた場合であっても。。。同じく言えます)。

 多くの場合、母親が受胎完了(着床後、対外受精の場合も着床後)のとき、自分の中で出来上がった命を受け入れ、父親は本来ならば母親の妊娠が無事に進んでいくときから、母親と一緒に、遅くとも誕生の際、その子を名付けます。名づけの時点で、その命を受け入れ、育てる約束をします

 要するに、どの親でも里親・名づけ親のような面をもっているということです。(男女が一緒になることによってまたは精細胞を提供することによって精細胞の結合を可能にする。精細胞が出会って受精の過程をたどって胚を作る。産みの親は自分の中へ着床してきた胚を受け入れて初めてそれが胎児になっていくことができます。胚が胎児になるためには聖霊の息吹が注がれます。そしてその生命はかけがえのない一人の人間になってゆくのです)。

 ところで、名づけの重要さについてもう一つの観点から考えることができます。生まれてからかけがえのない存在であり、値段ではなく価値をもっています。その価値はどんな場合でも失われない尊厳であり、尊重される権利の根拠です。したがって差別されてはいけないのです。犯してはならない尊厳です。その子供にはラベルを付けるのではなく、名前を与えるのです。

(この子はドイツ人とか日本人ですというより先に、この子は人間であり、人間の尊厳を備えていると言わなければならないのです。この子はヒトという種のDNAを持つと同時にこの子にしかない遺伝的特徴をもっているだれだれ(名前)です)。

では、この福音によってわらわたしたちは支えられ、励まされたのですが、今年のクリスマスにおいて自分の親たちに感謝したい。そしてどの人間も皆同じくかけがえのない尊厳をそなわっていることを自覚したいんです。そして生まれてくるすべての子どものために祈りたいものです。

 わたしたちはみなおやから生まれて聖霊によって生まれたのですからクリスマスの夜には親に感謝、神感に謝、命の為に感謝してグロリアを唱えたい。天にいとたかきところに神に栄光。
 わたしたちはすべての妊gンの命を大切にしだれも排除されない、だれも差別されないよノ中を作っていきたいものです。地上に平和があるように、平和を作るようにつとめたいものです。